マリアの爪痕
夢子。俺の胸は今も――あの時と同じ様に疼いて居るんだ。





高橋涼介の愛機FC3Sは赤城の峠を軽やかに駆ける。
人呼んで、『赤城の白い彗星』。どう呼ばれようと気にはならない。――俺は俺だから。

クーラーのきき過ぎた研究室から抜け出して息抜きに来たつもりが、すっかり走り込んでしまった。
日曜の――いや、日付はとうに変わっているから月曜の――深夜。
淡々とコーナーを処理している涼介はあることに気付いた。

(俺の他に一台…ターボ車が居るな。排気量は3000ccといったところか……)

テールランプを前方、視界の端に捉える。じわりとアクセルを開け近付くと――

(――Z32……?)

極めて低く設計されたボディ、左右4本出しのマフラー。
日産が世界に誇る不朽の名作――フェアレディZ。最高出力値は国産車の馬力自主規制上限となった280psを叩き出す。
真紅のZ32は1.5t超の重さを微塵も感じさせず、滑るように赤城を駆け抜ける。
魅惑のボディラインに優れた運動性能を備えた、究極のスーパースポーツマシン。

(あれだけ低いノーズにVG30DETT型3リッターV6エンジンが載るとはな……)

すぐ後ろにつこうとすると、Z32は減速し左ウィンカーを点滅させた。
『お先にどうぞ、追い越してください』ということだろう。涼介は苦笑しながら距離を開ける。

それを受けた前方のZ32は、エネルギー資料館を右手に駐車場へと左折していく。涼介は当然のように従った。

駐車場に停めたFCを降りると湿った空気が纏わりついてくる。


程無くしてZ32から降り立ったのは、艶やかな黒髪の女性。長い髪をざっくりとセンターで分け胸元へ流している。
ホルターネックのキャミソールからは白い肩が剥き出しで、髪の間からちらりとタトゥーが覗いた。
真っ暗な闇の中で視線を逸らせない、端正な顔立ち。何処と無くZ32のボディに似た、蟲惑的なスタイル。


「あたし、何かした?」
開口一番、咎める風でもなく彼女は訊いた。まるで今日の天気でも聞くような調子で。


「いや……不快な思いをさせてしまったのならすまない。
  この辺じゃ見掛けない車だったから、興味が湧いたんだ。いい腕だと思って――」

県外ナンバーのZ32にもたれる彼女の足元は、ヒールの高い華奢なミュール。

(まさかこれで運転してたっていうんじゃないだろうな……)


「そっか。良かった。あたしココ来るの初めてだから、地元の人に迷惑かけないようにって気をつけてたんだよ」
にこりと笑った顔は途端に人懐こいものに変わる。涼介の心臓がトクンと跳ねた。


「キレイな顔してるんだね」
彼女は涼介の元に近寄るとまじまじと顔を見つめる。ミュールの高さを差し引いても身長は低い方だろう。

「いいな。お肌もキレイ。羨ましい」
彼女はぷくりと頬を膨らませて涼介の頬に右手を伸ばす。白い指は躊躇うことなく左頬を抓んだ。
指先にほんの少しだけ力を入れたと思ったらすぐに離れて。



俺の鼓動がこんなにも激しくなっていることに、彼女は気付いているのだろうか。



「こんな夜中にドライブするなんて美容に良くないぞ」
夜更かしは肌に悪い――と言いかけた涼介の唇を、柔らかいものが塞いだ。一瞬だけ触れて離れた、彼女の紅い唇。

「あなただって。人のこと言えないじゃない」
悪戯っぽい笑顔。
大きな瞳で見上げてくる彼女の細い腰を――堪らずに抱き寄せた。抗うことなく彼女は腕の中に存在した。 高い体温と柔らかな感触。

「意外と、強引なんだ?」
少し乱れた息を吐く。
俯いていた彼女は涼介を見上げ、歌うように呟いた。


「あたし、清潔なセックスが好きなの」


何と返したら良いのか解らず逡巡している涼介を見つめて微笑う。
「この時間だと麓のラブホくらいかな」
「……名前も素性も判らない男と寝れるのか?」
「そんなのどーだっていいじゃん。人生って思ったより短いよ?それに、」
「……?」
「あたしのココロが疼くんだもん」
眩暈がする程妖しい微笑を浮かべ、彼女は唇を寄せる。先程よりも幾分長いキス。


「……俺のFCに乗るか?」
「んーん。Zで行く。先行してね」
するりと涼介の腕を抜けて彼女はZ32に乗り込む。
腕に残った彼女の温度を確かめるように涼介はFCへ向かう。体の中心は既に熱くなっていた。





「名前をまだ訊いていない」
夢子
部屋の照明をギリギリまで落としたベッドの上。彼女のバスローブを解きながら問うと、案外すんなりと答えた。

夢子、か。……俺は涼介」
「いい名前だね」
「そうか?」
「うん。涼介にぴったり」
名前を呼ばれるだけでこんなに熱くなる。
シャワーを浴びたばかりの、ボディソープが匂い立つ互いの体。



――――何度求めたかもう解らない。涼介が全身に散らした紅い痕は、夢子の白い肌によく映えていた。



「……腰痛ぁ……。涼介上手過ぎ」
笑って紫煙を燻らせる夢子の左肩には、薄く微笑むマリアのタトゥー。
柔らかなその体に手を伸ばした涼介の唇に触れたのは、ブラックストーンのフィルター。
暗褐色のそれは夢子の瞳の色に似ていた。そして甘やかな香りも。


「もうゴムないよー。電話する?」
ヘッドボードの上を探る夢子の白い背中にまた欲情を覚える。
涼介はベッドカバーに置かれた灰皿に手早く煙草を揉み消し、後ろから抱きすくめた。


「このままだと駄目か?」
「あたしピル飲んでるし……病気とかも持ってないけど」
「けど?」
首筋を舐め上げながら夢子に訊く。
この場に俺と夢子以外の、第三者の気配を感じたくない。


「涼介に――本気になっちゃうから」
少しだけ震えた声で夢子は言った。


「俺は構わない」
たとえ一夜限りの永遠だとしても。



濡れた花弁をそっと押し開く。
涼介自身が内奥まで届くと、夢子が喉の奥で小さな悲鳴を上げる。シーツに立てた爪は唇と同じ紅色だった。
夢子の瞳に薄っすらと涙が滲んでいるのに気付いたのは唇を寄せたとき。
柔らかな唇に涼介がキスを落とすと、ぎゅっとしがみついてくる。
愛しくて堪らなくなって――夢子の熱い体を壊れる程強く抱き締めた。




背中に夢子の爪を感じながら涼介は果てた。




「――夢子……」
霞がかった頭で隣をまさぐる。しかし涼介の手はベッドの中で虚しく空を切った。

夢子が居た筈のスペースはとうに冷えていた。午前8時。ゆるりと体を起こす。
ベッドの脇に脱ぎ捨てた服も、脱ぎ散らかした靴も、夢子のものだけが消えている。
シンと静まり返った室内。自分一人の息遣い。

急に不安になり、フロントへ電話を掛ける。ボタンを押す指が微かに震えた。


『お連れ様はもう帰られましたが……』
夢子は一時間程前にホテルを出たらしい。
その際清算は済まされ、連れはまだ寝ているから起こさないでくれ、と言付けて行ったと。

『チェックアウトは12時になりますので、延長する際はお電話ください』
事務的に会話を打ち切って受話器を戻した涼介は浴室へ向かった。


洗面台の大きな鏡に写った自分の体に目を見張る。


全身に散らされた痕。細く長い線。夢子の唇と爪に因って描かれたそれらは鮮やかに紅く、Z32のボディの色にも似ていた。
自分が夢子に痕を付けたことは微かに覚えている。
それと同じ――いやそれ以上に夢子も涼介に印を残していたことは、綺麗に記憶から抜け落ちていて。


「参ったな……」
苦笑して溜息を吐く。
今から追い掛けたら間に合うかも知れない――
一瞬浮かんだ考えを打ち消した。

万が一追い付いたとしても、どうしようと云うのだ。何と言う?――『愛している』?それ以外に何を言えばいい。


紅い印の残る胸がヒリヒリと疼いた。



夢子は朝に消えた。それは事実。
何度も体を重ねた。それも事実。
愛に触れた気がした。それは事実?




涼介の体に刻まれた紅い傷跡だけが、紛れも無い――――真実。





[マリアの爪痕]END.