駆けつけてやる
「トオルさん?夢子です」
『ああ、今向かってるんだけど……混んでるから少し遅くなると思う』
「了解です」
『悪い。もう少し待ってて』
「はーい」
夢子は携帯を閉じると全身を姿見へ映した。最近肌がキレイになってきている。体調もいい。『恋をするとキレイになる』のは本当だ。体は嘘を吐けないのだから。

前髪を少し直し、玄関のドアを開けた。エレベーターで一階へ降り、ポーチを出る。静かな住宅街。遠くから聞こえる犬の鳴き声。
トオルが来る方向に目を向ける。シンと静まり返っている、冷えたアスファルト。
(早く来ないかな……)
気を抜くとついニヤけてしまう。もう少しキリっとしなきゃ、と口元を引き締めた途端。背後から「すみません」と声を掛けられた。
思わずドキリとして振り返る。中肉中背。銀フレームの眼鏡。どこにでも居そうな、これといった特徴のない〈普通〉の男性。
「道を聞きたいんですが……」
「あ、はい。どちらまで行かれるんですか?」
「あなたとあの世まで」
「え?」
聞き間違いかと相手の顔を見つめた。相手もじっと、能面のような表情の無い顔で夢子を見つめている。初対面ではない。彼には以前、どこかで会っている。
「――あ、」
「思い出して貰えましたか?夢子さん」
断片的に記憶が蘇ってくる。甘いカクテル。ピースアロマメンソールBOX。陰湿な視線。アフター。本指名。ここ数ヶ月来店していない――
「ご無沙汰してますー。最近どうしたんですか?全然、お店に来てくれないから寂しかったんですよ〜」
即座に営業用の笑顔に切り替えるが、彼の表情は全く変わらない。
「あなたに会いたくて来ました」
「……ごめんなさい。私、今日お休みなんです」
「ええ。だから自宅まで来ました」
薄い笑みを浮かべながら、彼はジリジリと夢子に歩み寄って来る。
「ここ、オートロックなんですよねぇ。やっぱり当てずっぽうじゃ開かないみたいで。僕、夢子さんが出てくるの、ずっと待ってたんですよ」
この人、おかしい。普通じゃない。そう判断した時、彼の右手で街灯の光が反射したことに気付く。握られているのは――いわゆる〈鋭利な刃物〉。
「会えて良かったです」
彼の言葉に背を向け、夢子は走り出していた。可愛いからって、ヒールが細くて高すぎるミュールなんか履くんじゃなかった、と後悔しながら。



後ろを振り返るのが怖かった。
薄暗い公園に駆け込む。チカチカと瞬く街灯が、ひどく心許ない。浅い呼吸、震える足で立ち尽くした。
(……どうしよう。落ち着かなきゃ……)
深呼吸を何度か繰り返していると、サイレントモードに設定し忘れた携帯がけたたましく鳴った。
バッグから取り出すと、白く光るディスプレイには[末次トオル]と表示されている。慌てて通話ボタンを押すが、繋がるまでもどかしく感じた。
「――もしもし、」
夢子?さっき着いたんだけど、部屋に居ない?インターホン――』
「トオルさん!助けて!!」
『……え?何、どうしたんだよ』
「お願、公園――」
夢子の言葉は、鼻と口を〈何か〉に覆われて容易く遮られる。直後にぐらりと視界が揺らぎ、天地が引っ繰り返るような奇妙な感覚に襲われた。



意識が戻ったことにより、意識を失っていたことを知る。薄く開けた瞼はひどく重い。夢子は公園のベンチに座らされているのだと気付いた。
「すみません。ちょっと量が多かったみたいですね」
左側からくぐもったような不透明な声がした。
「初めてなんでよくわからなくて。結構即効性あるんですねぇコレ」
左手の白い布を街灯に掲げながら、彼は右手でナイフを弄んでいる。布には恐らく薬品が染み込ませてあるのだろう。夢子は回らない呂律で呟いた。
「……何が欲し、ん――ですか」
夢子さん、あなたです」
彼は真っ直ぐ前を向いたまま話し始めた。
「僕は夢子さんが好きなんです。……あなたが僕以外の誰かのものになるなんて耐えられない。あなたが僕だけのものにならないなら、あなたを殺して僕も死にます」
「……私はそんな、価値のある、人間じゃないです。お店で、着飾ったキレイな私しか、知らないのに、あなたの命を賭ける程、大それた女じゃ……ありません……」
頭は冴えてきていた。それでも体には痺れが残り、まだ動けそうにない。
「それに……私はもう、トオルさんの、ものです」
「…………誰ですか」
「私が、今、好きな人です」
夢子さんは、僕だけを見てはくれないんですか」
「今ここで、あなたに殺されても……私はきっと、トオルさんのことしか、考えられないと、思います」
「――僕のことだけ見ててください!」
ダン、と背中に硬い木の感触。息が詰まる。肩を押さえ付けられ、ベンチに押し倒されていた。
「僕、死姦には興味ないんで今やっちゃいますね」
淡々とした口調、襟元から一気に切り裂かれたワンピース。冷たい手が身体を這い回り、夢子ははっきりと嫌悪感を覚えた。
「……あぁ、夢子さんやっぱり肌白いんですねぇ。想像通りです。すごくきれいだ。嬉しいなぁ」
彼はにんまりと笑みを漏らした。初夏の夜、気温は低くない筈なのに夢子の全身は粟立ち震えが止まらなかった。きつくきつく目を瞑る。せめて何も見ないように。


最後に一目だけでも、彼に――トオルに、会いたかった――――


突然、骨と骨とがぶつかる鈍い音が降ってきた。夢子の全身を這い回る嫌な感触は消え、かわりに身体を包んだのは温かなジャケット。
「――何だ!この野郎っ」
恐る恐る目を開けると、半分に欠けた月が視界に飛び込んできた。素っ気無く他人顔で輝いている。ようやく上体を起こした夢子に、トオルの背中が見える。
「邪魔するな!」
ナイフを握り締めた彼が、口から血を流しながらトオルへ突っ込んでいく。叫びたいのに、喉の奥が焼け付いたようにヒリヒリと痛く声すら出ない。
トオルはいとも容易く男の腕を締め上げた。カラン、と乾いた音を立ててナイフが地面に落下する。
「男なら素手で来いよ」
「ぐっ……」
地面に捩じ伏せ、背中に腰を下ろした。感情を押し殺したような表情で、男の財布を取り出す。
「――へぇ。結構いいトコ勤めてんだ」
免許証と名刺を眺め、哂うように呟く。
突然「警察、行く?」と投げ掛けられ、夢子は思わず首を振る。制裁はもう充分だろう。トオルはそれを察してか「解った」と低く言った。
「今回だけは見逃してやるよ」
財布を彼のポケットに戻し、左腕を掴んだ。

「二度と夢子に近付くな」

トオルが彼の腕を〈折った〉のだと夢子にも解った。男の左腕は不穏な音を軋ませ――在らぬ方向へ捻れていく。利き手でないのは、せめてもの配慮だろうか。
「がッ、は……」
「次は腕一本じゃ済まねぇからな」
大粒の脂汗を浮かべた男は荒い呼吸の下、頬を地べたへ擦り付けながら辛うじて頷いた。
「消えろ」
トオルは立ち上がり、男の脇腹を一度蹴り上げて低く呟く。夢子がかつて見たことのない、獰猛な横顔を覗かせていた。


「怪我、しなかったか」
ベンチの前にしゃがみ、トオルは夢子の剥き出しの膝に手を置いた。小さく頷いた夢子を安堵したような顔で見つめる。
「良かった。……帰ろう、夢子
そっと抱き締められて伝わる体温にひどく安心し、ようやく涙が出てきた。
「……トオルさ、来て、くれた……」
「遅くなってごめんな」
「来てくれ、って、思わなか……っ」
広い背中にしがみ付いて子供のように泣きじゃくった。人前で涙を流したのは――いつ以来だろう。
不規則な嗚咽が薄暗い公園に響いている。あやすように髪を撫でていたトオルが、そっと夢子の額に唇を寄せた。
半分足りない月の形は、二人の関係を表しているように見えた。