BEAUTY & THE BEAST (page.1/2)
夢子の美しさは、壊す為に在る。





「ねぇ、最近清次くん乗せた?」
助手席に大人しく座っている夢子がぽつりと訊いた。


「ああ、昨日。何だ、忘れ物でもあったか」
「うぅん。乗ったとき匂いがしたから」
「匂い?」
「うん。清次くんの香水の匂い」
「判るのか。鼻が利くな」
「京一、わかんないの?」
夢子に言われるまで気付かなかったぜ。今も匂いは感じないが」
「鼻つまってんの?」
「……いや、別に」
「ふぅん。自分ちの匂いってわかんないけど、それと一緒かな」
「そうかもな」
漆黒のEVO3は派手な音を立てて第二いろは坂を上っていく。
金曜の夜、交通量は少なくない。だが大抵の車は、京一が近付くと減速して端に寄せる。
理由はミスファイヤリングシステムの大きな音。そして――理屈抜きで背後に感じる圧倒的な威圧感。
黒いEVO3には地元の車は勿論、他県ナンバーの車すらも近寄らない。近寄ったとしてもその瞬間、EVO3は遥か前方だ。


「論文はどうだ。進んでるか」
「うーん……まぁまぁかな。ノート持ってきてるからどこでも書けるよ」
「徹夜してるだろ。クマができてるぞ」
「……うん」
「それから――暫く日に当たってないだろう。夜型になったか?」
「その推察は当たってるけど……走り屋さんには言われたくない」
夢子が心配だから言ってるんだ」
「優しーい。どしたの?いつもの京一らしくない」
「俺はいつも優しいだろ」
「よく言うわ」
くす、と笑んだ夢子は窓を開けた。


「雪、降りそう」
厚い雲間から星がハッキリ見える程澄み切って、凛と冷たい空気が車内に広がる。


「今年は雪まだだな」
「そうね。去年の今頃はもう積もってた」
吐く息が既に薄っすらと白い。



京一はお喋りなタイプではない。夢子もどちらかといえば聞き役に回る方が多い。
2人の間にあまり多くの会話はなかったが、ふと訪れる長めの沈黙すら夢子にとっては愛おしく感じられた。



「雪が降っても京一は走るんでしょ?」
「ああ」
「喜んで雪道走るなんて信じられない」
「まあ普通は嫌がるだろうな」
「普通は、ね。普通じゃないもの。京一も、チームの皆も」
夢子はくすくすと笑いながら京一の横顔に目を向ける。
いつも不機嫌そうに見えるけど、本当はそうじゃない。感情の微妙な温度変化も夢子は知っている。

「好きよ、京一」
「……解ってる」
それだけ呟くとEVO3は明智平へ到着した。




「京一さんお疲れ様です!」
夢子姐さんご無沙汰っス!」
既に集まっていたメンバーがズラリと整列して京一と夢子を迎える。
走り込んでいたのだろう、エンジンとタイヤの熱い匂いが漂っている。
日光いろは坂最速のランエボワンメイクチーム『エンペラー』。公道最速のランエボは峠のキング。そしてその頂点に立つ京一は皇帝。

「もぅ。それだと私、極妻みたいじゃない」
苦笑しながらEVO3を降りる夢子。ブーツのヒールがアスファルトに当たり小気味良い音を立てる。




エンペラーのリーダー・須藤京一の<彼女>だというだけで、メンバーには特別扱いをされている。
少し悪いような気がした。凄いのは私ではなく京一なのだから。
だから私は、明智平へ行くべきではないのかも知れない。そのことを伝えると、京一は微笑って「気にするな」と言った。

「あいつらなりに気を遣ってるんだろう。それに夢子みたいな華が居た方が走りに気合い入るんだぜ」
「京一もそうなの?」
「あぁ。……単純だろ」
「うん、なんか可愛い」





〈チューニング〉という言葉を知ったのはいつだっただろう。
エンジン音を好きになったのは。公道で法定速度を遥かに超えることの恐怖が快感に変わったのは。
狂おしい程に愛おしいという感情を抱いたのは。
――全て、京一と出会ってからだ。





夢子はベンチに腰掛けるとノートパソコンを膝の上に置き、論文の続きを書き始める。
暫くして顔を上げるとメンバー達の姿はなく、京一がこちらへ歩いてくるところだった。
「俺も少し走ってくる」
「うん、気をつけてね。事故らないでよ」
「ああ」
京一はジャケットを脱ぐと夢子に放った。
「コート着てるから寒くないよ?」
「邪魔だから持っててくれ」
そして夢子の顎に手を添え、ほんの一瞬口づける。目を瞑ると、夢子があげたストロベリーキャンディの匂いを感じた。
「ここに居るんだぞ。何かあったら携帯鳴らせ。すぐ戻る」
「うん。わかった」
夢子は京一に小さく手を振る。EVO3はクラクションを短く2度鳴らし明智平を後にした。




明智平には夢子が叩くキーボードの音だけが聞こえている。
少し冷えてきた手を止めて耳を澄ますと、エンジンの咆哮が微かに此処まで届いている。
再び画面に目を落としたその時、一台の車が近付いてきているのに気付いた。
メンバーにしては早過ぎる。それにエンジン音の質も――何となく違う気がする。
やがて姿を表したのは、真紅のMR2だった。夢子はキーボードを叩く手を止めてじっと見つめた。
ミッドシップはドライバーの背中にエンジンが載ってるんだ――という京一の言葉を思い出す。


MR2から2人の男が降り立った。
夢子は頻繁に明智平へ来ているわけではない。そのためよく顔を合わせるメンバーしか知らない。
だが、ランエボのワンメイクチームにMR2がいるとは考え難い。
そんなことを逡巡していると2人がこちらへ向かってきた。
「こんばんはー」
「……こんばんは」
「一人?何してんの?」
「彼氏、待ってるの」
「へー。こんなとこで女の子待たせるなんてね。走り屋?」
「うん。走り屋」
「カレシ何乗ってんの?」
「黒のエボ3」
何気なくそう言ったとき彼らの顔色が変わった。


「知ってるの?」
「知ってるも何も……エンペラーの須藤でしょ?」
「へぇ……そんなに有名なんだ」
「超有名人だよ!彼女なのに知らないの?」
「京一はそういうこと、殆ど話してくれないから」
「マジで?オレだったら自慢しまくるけどなー」
「オレらがわかる範囲で良かったら須藤のこと教えてあげるよ」
「本当?」
「あぁ。戻って来るまで話そーよ」
「……うん」
書きかけの文章を保存しパソコンの電源を落とした。
京一はこのことを知ったらどうするだろう。――怒るだろうか。それでも知りたいと強く思った。好奇心には敵わない。




気温はとうに氷点下だった。夢子は柵にもたれる彼らの話を聞いている。握りしめたミルクティーの缶はもうすっかり冷えきっている。
彼らは以前バトルで京一のEVO3を見てからずっとファンだった、と言った。
「エボなのにすげーよく曲がるんだぜ。信じられなかったよ」
「だよな。あれはマジで鳥肌モンだった」
夢子の知らない京一がそこに居た。東堂塾、赤城のFC、秋名のハチロク――――




その時、ランエボの咆哮がハッキリと耳に届いた。すぐにメンバーが戻ってくるだろう。
彼らはそれに気付くとそわそわと落ち着きをなくした。
「……オレら、須藤の彼女に手出したとか思われないかな」
「大丈夫よ。私から言うから」
夢子は苦笑してベンチから立ち上がった。冷たい風が吹きコートの裾がふわりとめくれる。

「ねえ、須藤のどこが好きなの?」
「そうね……。危なっかしいとこ、かな」
少し微笑って言ったが、彼らは理解できていないようだった。




夢子姐さん只今戻りました!」
「はーい。お疲れ様でした」
メンバーが続々と戻ってきた。エンジンフードを開け何事か話し合っている。
「京一は?」
「すぐ戻って来ると思いますよ。雪降るかも知れないから路面がドライなうちに走っておきたい、って言ってましたけど」
「ふぅん。……ねぇ、雪道走るのって楽しい?」
「すっげえ楽しいっすよ!……夢子姐さん、そいつら誰すか?ナンパされたんスか?」
「まさか。京一のファンだって言ってたよ」
「それなら別にいいスけど。夢子姐さんに何かあったら、俺ら殺されます」
顔を見合わせてこっそりと苦笑すると、EVO3の音が耳に入った。誰とも似ていない、京一の音。
「……来ましたね」
「来たね」


王者の風格を漂わせたEVO3が明智平へ戻ってきた。
「挨拶でもする?」
MR2の前で話している2人に声を掛ける。京一のファンなんて、これから先出会えるかわからない。
「マジ?すげー緊張する……」
夢子は微笑い、京一の元へ駆け寄る。運転席の京一は夢子の姿を視界に捉えると、ほんの少しだけ笑んだ。



「あの、オレたちずっとエンペラーのファンで……」
「握手してもらっても、いいっすか?」
まるでアイドル扱いの京一は苦笑しながらそれを受けた。

夢子には手出ししてないだろうな」
「モチロンですよ!」
「そうか。それならいいが」
くっと口の端だけで笑い、メンバーに声を掛ける。
「今日はとりあえずこれで解散だ。雪降りそうだから気をつけろよ」
「お疲れした!」
夢子はメンバーに手を振り見送る。MR2の2人も名残惜しそうに去っていった。