五月の詩
オレは五月に恋をした。
大学構内、本館掲示板前に豪が立っている。履修登録も終わり、そろそろ本格的に講義が始まる頃だ。〈約束〉の時間にはまだ早い。どこで時間を潰そうか、視線を巡らせる。
視界の端を横切った二人の男が、女性へ声を掛け始めた。サークル勧誘、またはそれに見せ掛けたナンパだろう。構内に新入生が溢れるこの時期、特別珍しい光景ではない。かくいう自分も新入生だが、彼等の目的は何も知らない〈女〉を釣ることのようだ。
「ねえ、イベサーとかキョーミない?いろんなガッコと交流するから、友達いっぱいできるよ」
「……いえ、あの……」
「見学だけでも歓迎だからさ、これから部室おいでよ。キミみたいなコに入ってほしいなあ」
「えと、だいじょぶです……」
漏れ聞こえてくる彼女の声は頼りなく弱弱しい。なんて断り下手なんだ、と豪はある種の驚きさえ感じた。ぐいぐいと腕を引かれ〈部室〉へ連れて行かれそうな彼女が、困惑したように首を振る。こんなもの、誘拐と変わらないじゃないか。無性に腹立たしさを感じた豪は舌を打ち、三人の元へ早足で近付く。男の手首を掴み「スイマセン」と発した。
「これからこいつと自動車部に行くんで、離してもらえますか」
「……チ、男連れかよ」
「行こうぜ」
興味を失くしたように、二人がこちらへ背を向ける。やっぱり、こいつら誰でも良かったんじゃないか。被害を免れた〈彼女〉がおどおどと豪を見上げた。──成程、これはチョロそうだ。彼等がターゲットに選んだのも頷ける。
「あの、」
「嫌なら嫌って言え。騙されるとこだったかもしれないんだぞ」
「……ごめん、なさい……」
「……いや。あんたを責めるつもりは無いんだ、悪かった。……オレ、北条豪」
「田中夢子です。ありがとうございました」
「ああいうのはどこにでも居るからな。構内だからって油断するなよ」
「気をつけます。あの……北条くんは、自動車部に入るの?」
「豪でいい。知り合いが居るんで、挨拶しに行くんだ。入部は考えていない」
「そうなんだ……」
「田中、クルマに興味あるのか?」
「ん……うん……。まだ免許、持ってないんだけど……。いつか、自分で運転してみたいって思ってるの」
小さな夢を打ち明けるような彼女の表情は明るく、眩い新緑を思わせた。清涼な風が一筋、身体を通り抜けていくようだ。携帯電話が震えていることに豪が気付く。発信者は約束の人物、自動車部の知り合いだ。
「ああ、オレ。……今、本館。これから向かう」
手短に通話を切り上げ、彼女へ目を遣る。唇に薄っすらと浮かぶ、柔らかな微笑。豪の胸中静かに灯る、陽だまりのような温かさ。
「……それじゃあ。そのうちまたどっかで会うかもな」
「そう、だね。……あの……私、豪くんのこと名前で呼ばせてもらうから……、豪くんがよかったら……」
「わかった。──またな、夢子」
名残惜しさを感じながら背を向ける。もっと、彼女と話していたかった。クルマのこと、サーキットのこと。内容なんて、なんでも良かったのだけど。彼女に少なからず興味を持ったし、同時に興味を持たれたいと思った。また、会えるだろうか。
一段と緑が濃くなった五月の夕暮。図書館前を通り掛かると「豪!」と友人と思しき声が飛んできた。顔を向けると、予想通り友人が手招いている。彼へ近付くと「豪の家ってさ」と切り出した。
「国内外のクルマ雑誌、バックナンバーも一通り揃ってるんだよな?」
「ああ、親父のだけどな」
「田中が見たいって言ってんだけど、貸してやってくんねーかな」
「いいぜ」
「サンキュー。おーい田中!豪が貸してくれるってよ!よかったな!」
図書館出入口から夢子が転げるように駆けてくる。豪の眼前で急停止した夢子は「豪くん!」と切羽詰まった声と共に顔を上げた。
「こ、ここ、車の雑誌あんまりおいてなくて!そしたら豪くんちにあるって聞いて!キレイに読むから貸してくれないですか!」
「わかったから落ち着け、夢子」
「んじゃ豪、俺部活行くからあとヨロシク」
「おう」
「自転車部、がんばってねー!ありがとー!」
手を振る友人を見送り、豪は夢子へ視線を移す。
「オレは帰るとこだけど、夢子は?」
「私も」
「じゃあこれからウチ来るか?雑誌、気に入ったやつは持っていっていいから」
「ありがと、嬉しい!遠慮なくおじゃまします!」
連れ立って駐車場へ向かう道すがら「バイト始めたんだって?」と尋ねた。
「そー。居酒屋さん、ゼミの先輩から紹介してもらったの。免許取るのにお金貯めたくて……。合宿教習って二週間くらいらしいし、夏休み中に行けたらいいなあって」
「楽しみだな」
嬉しそうに頷いて夢子が笑う。きらきら光る若葉みたいな笑顔を直視出来ず、豪はさり気なく視線を外す。
やがて一台の車の前で豪が足を止めた。つられて夢子も立ち止まり、豪の〈愛車〉をじっと見つめる。直後、車体正面から〈視線〉の高さを合わせるようにひょいとしゃがみ込んだ。
「豪くん。この車、日本の……?」
地面付近からの問いに「ああ」と答えた。
「NSX。聞いたことないか」
「んー……えーと……なんて言うか、ひらべったいね!」
「褒め言葉として受け取るよ」
苦笑を滲ませた豪が助手席のドアを開けて夢子を促す。ぱっと立ち上がり、大人しくシートに収まった夢子は物珍しそうに車内を見回した。走り出してから、シフトノブに左手を掛けるたび視線が刺さるのを豪は感じている。例え少量でも興味を持ってくれていることが嬉しかった。
「免許取ったら運転してみるか」
「いいの?自分で運転できるなんて夢みたい」
「勿論。普通免許、取るんだろ?マニュアル車の方が運転は楽しいぜ」
言語化し難い(恐らく驚嘆を意味するであろう)声が上がり、助手席の夢子が黙り込んだ。
「……限定で取るつもりか」
「だって、オートマのがちょっと安い、し……ちょっと早く取れる……」
「早いったって合宿教習なら二、三日の違いだろう。差額くらいオレが出してやる」
「そんな、悪いよ……」
「乗りたい車が決まってないなら、オレはマニュアルを勧めるよ。今後の選択肢を狭めないためにもな。……まぁ、今すぐってわけじゃないんだ。考えておいてくれ」
わかった、と夢子が呟いた。その声には、幾つかの覚悟を含んでいるように豪には感じられた。
邸内へ招かれた夢子は感心したように「豪くんのおうち、おっきいねえ」と溜息を吐いた。直後、傍らで吹き出した豪を不思議そうに見つめる。
「……私、へんなこと言った?」
「いや。小学生の頃、クラスメイトから全く同じこと言われたのを思い出した」
「小学生レベルってことかな……」
「気にするな。こっちだ」
夢子を連れ、父の書斎へ足を踏み入れた。室内照明を点けた豪が「入れよ」と夢子を振り向く。
「すごい、広いね!図書館みたい!」
きょろきょろと室内を見回していた夢子が、棚からそっと一冊を抜き出しページをめくる。
「海外のもあるんだ。……やっぱぜんぶ英語……がんばったら読めるかな……」
「イタリア誌だぞ。イタリア語だろ」
「…………わざとだよ?」
「それは失礼」
抜き出した時と同様優しい手付きで、夢子が雑誌を棚へ差し戻す。真剣な眼差しで背表紙を見つめる夢子を、豪が何とは無しに視界に収める。たしか、貰い物の洋菓子があった筈だ。あれならコーヒーに合うだろう。二人分淹れてこよう、と思い立った時。
書斎の扉が開き、兄・凛が顔を覗かせたことに気付く。豪と視線を合わせた凛が気怠そうに「帰ってたのか」と呟いた。徹夜明けだろうか。
「大学の友達、雑誌貸すんで連れてきた。まだ親父に言ってないけど、いいよな」
「ああ、ただ飾っておくよりいいだろう。いらっしゃい、こんにちは」
雑誌を数冊抱えたまま立ち尽くす夢子は、凛から視線を外そうとしない。しばし見つめあった後、我に返ったように勢い良く頭を下げた。
「──はじめまして!おじゃましてます!田中夢子と申します!」
「ご丁寧にどうも。兄の凛です。豪と仲良くしてやってください、夢子さん」
「……はい……えと……ありがとうございます……」
「それじゃ、ごゆっくり」
ぱたんと閉じられた扉を呆けたように見つめる夢子は、明らかに動揺している。
「どうした?顔赤いぞ、夢子」
「へ、へーき!なんでもないから、全然……気に、しないで……ください……」
気にするなと言われても、赤面の程度も慌てぶりも尋常じゃない。まさか──夢子は兄を相手に、恋に落ちたのだろうか。もしそうだとしたら、非常に不愉快だと言わざるを得ない。
「……コーヒー、淹れてくる」
ぶっきらぼうな口調になってしまったが、夢子は気に留めていないようだ。ぱたぱたと右手で顔を扇いでいる。後ろ手に扉を閉め、豪が唇を結んだ。こんなこと──兄のせいで自分の気持ちに気付くなんてことが──あっていいのだろうか。オレは五月、夢子に恋をしたのだ。
「紙袋に入ったアクセサリーがドアに掛かってたんだけど……豪くん、なにか心当たりない?」
大規模な走行会を間近に控えた、梅雨のある日。夢子からの問いは突然だった。愛車のセッティングに頭を悩ませていた豪は走行データから目を上げ「いや」と簡潔に答える。
「どうかしたのか」
「……ううん、なんでもない。忙しいとこごめんね」
困ったような顔で笑った夢子は「がんばってね、サーキット」と手を振り、豪に背を向けた。しばし彼女の背中を見送った豪は、再び紙面へ視線を落とす。心の隅に何かが少し引っ掛かるような、ささくれ立つような、ごくごく些細な〈違和感〉から目を背け──気付かないフリをした。オレは、この時夢子を引き留めなかったことをひどく後悔することとなる。
学生用駐車場に停めた愛車から降りた豪は、大きな欠伸で息を吐く。前期試験の心配をしなければならない時期がやって来た。それを乗り切れば長い夏季休暇。
あれからずっと、彼の〈監視〉を続けていることを夢子は知らないだろう。勿論、知らなくていいことだ。
最寄駅から自宅までの帰り道。音楽を聴きながら、携帯を操作しながら。自ら警戒心を削ぐような行為は慎み、適度な危機感を持つようになったようだ。
約束の時間にはまだ少し早い。待ち合わせ場所、カフェテリアのベンチに座っている夢子は──まるで縁側で日向ぼっこでもしているような──うっとりと心地良さげな表情を浮かべている。豪が近付く気配を感じたのか、夢子はイヤホンを外して「おはよ」と笑みを咲かせた。
「おはよう。教習所のパンフ、持ってきたぞ。待たせたか」
「ううん、さっき来たとこだから。パンフありがと。豪くんに頼ってばっかりで、ごめんね」
「気にするなよ。オレ、おまえのこと好きだからな」
隣へ腰を下ろしながら何でも無いことのように告げたが、裏には〈友達として〉という逃げ口上を用意していた。夢子がそれに気付いたかどうか、豪には判らない。テーブルに置かれたパンフレットへ伸ばした夢子の指先が、はたと宙に浮く。
「……豪くん、今……すき、って、」
「そのままの意味だ。迷惑か」
「…………う、れしい、けど……豪くんは……その……私で、いいの?」
「夢子こそ。おまえ、オレのアニキのこと好きだろ」
驚いたように目を見開いた夢子が、発しかけた言葉を飲み込んだ、ように豪には見えた。
「違うのか」
「……えっと……引かれると思うんだけど、聞いてくれる?」
「ああ」
「……その、凛さんは……私の、初恋のひとに似ていて……。……小学生の頃見てた、アニメに出てくるキャラクターなんだけど……」
夢子が挙げたタイトルは豪も知っている。十数年前にテレビ放送されたオリジナルアニメを原点とし、現在もシリーズ展開されている人気作品だ。
しばしの沈黙を破り、夢子がぽつり「大佐」と呟いた。彼女の初恋相手の『役職兼愛称』だと言う。〈彼〉には生き別れの弟が居り、二人は互いにそうとは知らず敵対関係に在り続けた。弟を自身最大のライバルと認め、その手により──戦場に命を散らした。偶然にも、それは夢子の誕生日と同日の出来事だと。切々と語る夢子の瞳に滲む涙には、一体幾つの理由が含まれているのだろう。
「大佐が現実に居たらきっと、凛さんみたいなんだろうなって……。キャラクター愛が三次元相手に……あんな大量に溢れたのは生まれて初めてだったもので……」
「それじゃあ、アニキ本人は関係無いと思っていいのか」
「いえ!凛さんに大佐のお衣装を着ていただけたらどんなにいいかと思いました!」
「……コスプレ、ってやつか……」
「何着も作ったけど、私じゃ体格ていうか身長が絶望的に足りなくてなりきれやしないの!今までいろんなレイヤーさん見てきたけど、凛さんは絶ッ対似合う!私が保証する!」
先程まで泣きそうだったことがまるで嘘みたいだ。喜色満面で親指を立てる夢子を見つめているうち、豪の唇から苦笑混じりの溜息が零れた。
「……豪くん……?」
「何でも無い。気持ちを整理する方法を見失っただけだ」
「やっぱり、引いた……よね……」
「いや。夢子は小学生の頃から、今もずっと〈大佐〉が好きなんだな」
「はい……」
「それだけ『好き』が続くって、凄いことだろ」
「すごい、かなあ……?」
「オレ、小さい頃からアニキの真似してカートやモトクロスなんかやってたけどさ。思い通りにいかないことが続いたせいで飽きたり嫌いになって、何度も投げ出したよ。それでもやっぱり、オレは〈走る〉ことが好きなんだ。何度離れても結局戻って、その繰り返し。対象が何であれ、一つの事柄に真剣なヤツは格好いいと思う」
「豪くん……」
「オレは夢子のことをもっと知りたいし、オレのことだって知ってほしい。……まずは、そうだな……夢子が好きな作品を知りたい」
「じゃあ、布教用の全部貸すね。感想聞かせてくれたら嬉しいな」
「ああ。悪いが、オレは大佐に負けるつもり無いぞ」
「もしかして豪くん、妬いてくれてるの?」
「…………」
「なんてねー。自惚れが過ぎました」
けらけら笑う夢子の耳元へ、そろりと豪が顔を近付ける。
「そうだと言ったら、どうするつもりだ」
硬直したように身動きを止めた夢子はみるみるうちに頬を赤く染め、「うれしくて爆発します」と声を震わせ俯いた。
「オレの前から居なくなるなんて許さない」
「……ただでさえ豪くんカッコいいんだから、そんなこと言うの反則だよ……」
俯いた夢子の横顔に触れたいと豪は思った。その素直過ぎる衝動を理性でどうにか捻じ伏せる。
「急にしおらしくなるなよ」
「だ、って豪くんが……すきとか言うから……」
「……夢子は、オレのこと嫌いか……?」
落胆を全面に押し出した声を絞り出した。さすがにわざとらしいか。それでも、夢子ならきっと真に受けるだろう。慌てて顔を上げた夢子が、豪の予想通り問いを否定する。
「す、きです……好き、に決まってるじゃない……。掲示板前で、声かけてくれたの、すごくうれしかったんだよ……」
「それ、男二人にナンパされた時か」
「えと……サークル勧誘の……」
「ああ。オレが声掛けたこと、覚えてたんだな」
「忘れないよ。たぶん、ずっと忘れない。……ありがとう、豪くん」
何が、と問おうとして開きかけた口を噤む。夢子は『全部』と答えるような気がしたからだ。
「オレの方こそ。ありがとう、夢子」
遠慮がちに見つめ合うと、互いに照れ笑いを隠しきれずに居ることが分かる。豪は〈幸せ〉の端を掴んだように感じた。
「朝からアツイね、おふたりさん!」
突然飛んできた大声を受け、二人同時に振り返る。ロードバイクに乗り、派手なジャージを着た友人が颯爽と現れた。自転車競技部の朝練──いや、彼個人の自主練だろう。
「構内で騒ぐな。迷惑だ」
「イチャついてんなよバカップル。カノジョ募集中の俺様にケンカ売ってんのかコラ」
「……夢子も何か言ってやれ」
「自転車、普通のより細くない?初めて見た」
「カッケーだろ!すっげ軽いんだぜ。持ってみっか、田中」
「さわっていいの?」
夢子がロードバイクに食い付いた。彼女の好奇心は旺盛な方だと思う。
「え、これすごい、ほんとに軽い!……あとさ、なんでそんなピチピチしたの着てるの?趣味?」
「いい質問だな!田中にはイチから丁寧に説明してやろう♪シットすんなよ、豪!」
呆れ声で「しねえよ」と返す豪を無視した友人は、身振り手振りを交えて夢子へ〈説明〉を始めた。好きなことについて話す時、〈人〉はこんなにも嬉しそうに、幸せそうに笑うのか、と豪が気付く。例えばオレが、クルマのことを話す時も。相手からはこんなふうに見えているのだろうか。
兎にも角にも──五月に芽吹いたオレの恋が実ったのは、熱い暑い季節の扉が開いた時だった。
[五月の詩]END.
request.りょうこ様(相互リンク記念)
title.寺山修司
up date.2014/05/11