spir@l
快晴の予感漂う日曜、午前5時45分。地階駐車場から一人の男性を乗せたエレベーターが、目的のフロアに到着する。玄関ドアの前で足を止めた広也はインターホンを鳴らさず、持っていた〈合鍵〉を無遠慮にシリンダーへ突っ込んだ。内部から施錠しチェーンを掛けると靴を脱ぎ、まずは洗面所へ。両手をばしゃばしゃと濡らし、洗面台に二つ並んだ色違いのボトルを見遣る。ひとつは市販の、CMや店頭で見掛けるいたって普通のハンドソープ。もうひとつは、グリスやオイルの汚れも落とす〈業務用〉ハンドソープ。
「コレ使ってもほとんど落ちないでしょ。手が汚いときは絶対こっち使ってね」
オレの手に付着した汚れが落ちないことを気遣うより、ハンドソープの使用量が異常に多いことの方が──彼女・
夢子にとっては一大事だったのだろう。液体を掌で擦り合わせ、指先や爪の間も念入りに。泡を流して手洗い完了。傍らのタオルで手を拭きながら、続けてうがいに取り掛かる。ほんのり桃が香るうがい薬は、ここ最近の
夢子のお気に入りだ。唇についた水滴を右手の甲で拭う。
夢子はまだ、寝ているだろうか。それなら、起こさないようにしないとな。
そう思った途端、廊下を挟んで向かい側──通称・ゲーム部屋のドアがゆっくり開き、ゾンビのようなものがよろよろと這い出てきた。
「……こんばんは……いや、もうおはよーか……。手洗いとうがいは済ませた……?」
ドアにもたれて目元をごしごし擦りながら、欠伸混じりの挨拶を寄越す。ボロ雑巾みたいに疲れ果て、いつもの彼女とは別人だ。
「ああ。それより、また徹夜でゲームしてたのか、
夢子」
「……ニュル……だいぶ慣れたけど……世界はまだまだ広いって思うよね……」
ひと仕事成し遂げたような、爽快感さえ漂わせた笑顔をこちらへ向けた。目の下にははっきりとクマが確認できたが。
6帖程度のゲーム部屋にはバケットシートが鎮座し、大画面モニタがドライバーの視界を覆うように三つ据え付けてある。コントローラーは実車さながらのステアリングホイール。シフトレバーやフットペダルも、それぞれ一見しただけでは〈本物〉と大差ない。シートに座ってみると、ゲームセンターやドライブシミュレーターというより、まさにコックピット。完成度は無駄に高い。ペットも楽器も許容されているマンションらしいが、個人で出来得る限りの騒音・振動対策を施しているという。実際、部屋を閉め切ってしまえば静かなもので、中で何をしているかは全く分からない。恐らく昨夜からオンライン対戦に参加し、世界中のプレイヤーとニュルブルクリンクを走っていたのだろう。数ヵ国語が入り混じるボイスチャットを初めて聞いた時は驚いた。車に乗ると人が変わるって、ゲームでも起こるんだな。ステアリングを乱暴に捩り、ペダルを蹴りつけ、ヘッドセットマイクへ罵詈雑言を(英語で)飛ばし疾走する
夢子を眺めながらそう思ったものだ。
うんと背伸びをした
夢子が、再び欠伸混じりで広也へ問い掛ける。
「シャワー浴びるけど、ヒロはおなかすいてない?なんか食べる?」
「いや、少し寝る。ソファ使うぞ」
「またぁ?ベッドで寝たらいいのに……」
不要だと掌で伝えると、
夢子はやや不満げながらも頷いて浴室へ向かった。廊下の奥、リビングのドアを開けた広也はソファへ身体を横たえる。背もたれに掛けてあるブランケットへ手を伸ばし、ばさりと広げた。いつもここで仮眠をとる広也のために、
夢子が用意したもの。愛車のボディカラーとよく似た青色は、以前からずっと
夢子が好きな色。ゲーム内で彼女が酷使する〈愛車〉も、広也と同じ車種にボディカラー。欠伸を噛み殺した口元までブランケットを引き上げると、華やかな柔軟剤の香りに包まれるようだ。
夢子は今日どこかに行きたいと言っていた気がするけれど、どこだったか思い出せない。まあ、起きたら聞けばいいか。
ようやく眠りに落ちかけた頃。突然「ふぎゃあ」と、猫の尻尾でも踏んだような悲鳴らしきものが鼓膜に突き刺さり、広也は緩慢に瞼を開ける。遮光カーテンを閉め切っているせいか、室内は薄暗い。陽はもう高いだろうか。それはそうと、声の主が見つからない。視線をぐるり、巡らせてみると──ソファとテーブルの間に転がっているようだ。死体のようにうつぶせで倒れている
夢子の脇腹を爪先で一度突いたところ、息を吹き返しむくりと起き上がった。手にしていた携帯電話の画面を広也の鼻先に突き付け、何事かわめき始める。画面に表示されているのはメールボックスだと、広也は理解した。
「メール!整理してたら!ヒロのメール!消えた!ぜんぶ!」
「…………お前が消したんだろ」
この上なくだるそうに身体を起こした広也は前髪をかき上げ、
夢子を一瞥する。
「携帯のバックアップ、取ってねえのかよ」
「……とってない」
「去年ノートのデータ吹っ飛ばしたこと、忘れたのか」
「ヒロはなんで、そんなこと覚えてるのよ」
「あの時も散々騒いで……バックアップ取っておけって言ったろ。学習しろよ、ったく。……ま、消えたのがオレからのメールだけなら問題無いだろ」
それがいちばんの問題だよ、と零れた呟きは聞こえなかったフリをした。
夢子は未練がましく画面を睨み、眉根を寄せて唸っている。そんなことしたって、消えたメールが戻る筈ないのに。
広也にとってメールは、連絡手段の一つでしかない。今まで
夢子に送った件数だって、付き合いを始める前から考えてもそれほど多いとは思えない。内容は、約束の時間や場所を伝える連絡事項がほとんどだ。それらが消えたところで、困ることなどないだろう。やがて
夢子は名案を思いついたようにこちらを向き「私に送ったメール、残ってない?」と問うた。
「あるわけねえだろ」
「……ワタクシたった今、生きる希望を失いました」
広也からの簡潔な返答に納得がいかないようだ。涙を滲ませ、唇を尖らせて拗ね始めた。子供じみた仕草に、しかたねえな、かわいいなこいつ、なんて思ってしまったことを咳払いで誤魔化す。
「たかがメールで大げさなんだよ
夢子は。……後で適当に送ってやるから」
受信ボックスを全部、愛で埋め尽くすほどのメールを。……なんて、全然ガラじゃねえな。思い浮かんだ自分がバカみたいだ。もし、言ったとしたら……
夢子はきっと、頭のどこかがぶっ壊れたみたいに全力で喜ぶんだろうけど。
「絶対だよ、ヒロ。絶対送ってね」
「わかったって。しつけえよ、お前」
えへへとだらしなく頬を緩めた
夢子は、携帯を大事そうに握り締めている。まったく、何が嬉しいんだか。
「ねえ、私も送るからね。ヒロにメール、いっぱい」
「これ以上意味不明なメール、増やされちゃたまんねえっての」
しんと静まる部屋に気付いた広也が、言い過ぎたかと視線を遣ると──ひどく嬉しげな
夢子と見つめ合うことになった。
「照れなくていいのに」
「バッ……カじゃねえの
夢子。誰が照れてるって?」
「んもー、ヒロったら恥ずかしがり屋さんなんだから」
くすくす漏れる忍び笑いに加え、上から目線の勝ち誇った笑顔が咲いた。負けることが大嫌いなオレでも、
夢子の笑顔に敵わないことは自覚している。ひとつ息を吐いて、
夢子の頭へ掌を乗せる。まるい頭蓋の存在を確かめるように撫でさすると、冷たい髪に気付た。そういえば、シャワーを浴びると言ってたな。髪がまだ濡れているのはそのせいか。
「ちゃんと乾かさねえと風邪ひくぞ。ドライヤー使えよ」
「うん、ありがとー」
テーブルへ携帯を置いた
夢子が立ち上がり、こちらへ背を向ける。ドライヤーを取りに洗面所へ行ったのだろう。機嫌はだいぶ直ったようだ。きっと、リビングの姿見の前でドライヤーを使うんだ。妙に真剣な面持ちで。
オレは以前、
夢子のことを〈女〉特有の感情を一切隠そうとしない、良くも悪くも単純なやつだと思っていた。しかし意外なことに、彼女を知れば知るほど深みにはまっていくような、妙な中毒性を隠し持っていると気付いた時にはもう。残念ながら、すっかり手遅れだったんだ。砂浜へ一歩踏み出したはずの足が、思いがけず海底へ深く飲み込まれるような心地良い裏切り。
夢子と居ると、気付くこと──気付かされることが多くて驚く。些細なことさえ愛しく感じられて。さみしいとか、せつないとか、あいたいとか、あいされたいとか。自分にそういった想いや感情があることを、
夢子に思い知らされた。今では掛け替えのない、ただひとりの存在。
欠伸をひとつ、その後深く息を吐いた広也は、テーブルに放っていた携帯を持ち上げてソファへ身体を横たえる。ドライヤーを手に戻ってきた
夢子は携帯を操作する広也の指先を見遣り、期待するように「もしかして、メール?」と小声で問い掛けた。
「ああ」
「……私に?」
「いや。坂本から連絡来てた」
「あ、そっか……坂本くんか……。よろしく、伝えておいてくださいな」
他愛無い嘘を真に受けてリビングの隅でうなだれ、髪を乾かし始める
夢子を驚かせてやろうと決めた。まっさらな〈オレ専用〉受信ボックスへ送る1通目は、読んだ
夢子が思わず赤面するほど甘ったるい愛のことば。送信完了の画面表示を確認し、携帯をテーブルへ置いた。途端、
夢子の携帯がその隣で震え出す。程無くして風音が止んだと同時、広也はブランケットを引き上げて目を閉じた。知らぬ間に、唇へ薄っすらと笑みが浮かぶ。足音が近付いてきた。
夢子の手で一気にブランケットを剥がされ、歓喜の雄叫びと共に身体を揺すられ、体当たりのように抱きつかれた広也が完全に目を覚ますまで──あと60秒。
[spir@l]END.
title.pool bit boys(SPIRAL)
theme.
夢小説家に100+aのお題 no.059[メールボックス]
up date.2012/10/15(メルマガ読者様限定 先行公開.2012/10/10)