haiR×liaR×32R


彼に少しでも近づけるなら。性別も、髪も、本心だって。捨てたって全然、惜しくなかった。

古びたサークル棟、自動車部に割り当てられている部室。2度のノック後、ドアを開ける音から少し経って声が上がった。
田中。今夜、時間あるか?」
パソコンを睨み走行会の車載動画を編集していた夢子は、背後からの問い掛けを受けて緩慢に振り向く。声の主は部長。レジ袋を提げ「涼しー」と歌いながら冷蔵庫へ向かっているところだった。先日底をついたアイスの買い出しだろう。夢子は左腕の時計を一瞥すると作業を中断し、凝り固まった首と肩を動かしながらヘアゴムを解いて「ヒマですよ」と答えを返す。
「妙義行こうぜ。好きだよな、R」
冷凍室へアイスをしまい終えた部長は、レジ袋を折り畳みながら今夜の交流会がいかに素晴らしいか語り始めた。交流会──走り屋で賑わう妙義と赤城、それぞれのトップといっていいチーム同士のバトルがあるという。相手の地元でのバトルにこだわる赤城、地元の意地を賭けて負けられない妙義。何と言っても見所は、GT-RとRX-7の真剣勝負──。部長はどうやら、妙義のチーム、特にEG6を贔屓にしているようだ。ミラノレッドのシビックがどれだけ速いか田中に見せてやりたい、と息巻いている。確かにシビックも好きだし、歴代GT-Rはもっと好き。だけど……正直、走り屋チームや公道バトルにはあまり興味が持てない。でも、と夢子は首を傾げる。どんな車か見てみたいし、世話になりっぱなしである部長からの誘いを断るのは気が引ける。どう答えようか考えながら曖昧に頷いていると、不意に部長が視界から消えた。
「マジお願いします。田中さんのサイバーさんで妙義まで連れていってください。急でホントすんません」
何故か夢子の愛車CR-Xにまで〈さん付け〉されている。キレイとは言い難い床で土下座する部長のワンダーは、数日前から修理中だということを思い出した。部車も整備中だとか、ショボい代車じゃ気分が乗らないとか、他の部員達はバイトやデートで捕まらないとか、床に平伏したまま切々と訴えてくる。
「メシ代もガソリン代も、全部俺が持ちます。なんなら、焼き土下座しますから」
下からの懇願に細い溜息を漏らし、夢子はしゃがみ込んだ。下ろした髪が流れ、蛍光灯に照らされる。
「簡単に土下座なんかしちゃだめですよ、部長。だいたい、誰が鉄板用意するんですか」
部長が顔を上げた途端、期待を込めた眼差しに射られて思わず苦笑が浮かぶ。
「正直に言うと、公道バトルってよく知らないんですけど……。妙義のR、見てみたいです。あと、シビックも」
「サンキュー田中!恩に着る!」
子供のように飛び上がってはしゃぎながら、謎の踊りを披露する部長を呆れながらも見守っていた。



交流会の開始予定時刻が間近に迫る頃だ。夢子は腕時計へ目を遣る。舞台となる妙義山には、早くから多くの車と人が集まっていたようだ。県立妙義公園第1駐車場を目指し歩道に沿って歩きながら、部長のコース解説を聞いている。初めて目にする車種も多く、夢子は興味深そうに周囲を見回した。
「ここが上りのゴールなんですね。部長、妙義にはよく来るんですか?」
「いや、結構久しぶり。集まってるやつらは、赤城のチーム目当てっぽいけどな」
周囲の熱気につられて胸が躍る。お祭り騒ぎ、と言っても決して大袈裟ではないほど。駐車場には各チームのメンバー達が居るらしく、人だかりがざわついている。夢子の視線が吸い寄せられた先には黒の、R32。思わず「かっこいいなぁ」と唸った。傍らに立つ男性が、ドライバーだろうか。
「お、いたいた。ほら、あのシビックだよ」
赤色のシビック・EG6を指差した部長が、やや興奮気味に夢子を促す。車から降りた茶髪の男性は、夢子と同年くらいに思えた。

「あっちの、世代違いのセブン。白いのと黄色いの見えるだろ。あれが〈高橋兄弟〉つって、赤城のツートップ。この辺じゃ有名人」
その後部長が指差したのは、人だかりの中でも目立つ、長身で華のある男性二人。彼らの周囲には特に、女性が多いように見える。
「大人気なんですねえ」
「まったく、羨ましいよなぁ」
やれやれと肩をすくめた部長はすぐ傍に居る男性に声を掛け、何事か話し込んでいる。下りはやっぱシビックだよな──いや、それがケガしてんだってよ──マジかよ、じゃあ走んねーの?──断片的に聞こえていた会話はいつの間にか終わったらしく、部長に視線を遣ると仏頂面で腕を組んでいた。
「今の方、お知り合いですか?」
「へ?知らんけど」
知らない人相手に、あんなフレンドリーに話し掛けるなんて。夢子の表情を読み取ったのか「ここに居るやつらみんな同類だぞ。車バカ」とにこやかに言ってのける。自分もそれに含まれるのかと訊ねると愉快そうに首肯し、その後思い出したように肩を落とした。
「今日はシビック走んねーかも。田中に見せたかったんだけどなぁ」
「はあ……それは残念ですね」
「しかたない、またの機会にな。そろそろ始まるっぽいぞ」
交流会は上り・ヒルクライムから始まるとのことだ。妙義の捻じ曲がったコースをどう攻略するのか、期待が高まる。自分なら、どうするだろう。緊張感を持ったまま、部長と二人ゴール付近で待ち構える。GT-Rが有利に思えるけれど、どちらが勝つだろうか。
あちこちで携帯片手に実況し合う人達のお陰でどうにか、開始からの状況は掴めていた。せめてバトルの結末は、自分の目で確かめたい。
「あ、雨降ってきたぞ」
「おいおい、このまま続けて大丈夫か」
路面を心配する声が聞こえた。濡れた路面、崖っぷちを全開で走る〈公道バトル〉なんて──やっぱり、どうかしてる。遠かったスキール音がどんどん近付いてきて、2台が雄姿を現した途端。ギャラリーから歓声が、拳と共に上げられた。ゴールはもう、目と鼻の先。FDがR32のラインを塞いだ、そう思った刹那。FDが歩道に乗り上げて──
雨で煙る視界を貫いたのは、眩い程の黄色い閃光。──負けた。R32が、FDに負けた。目の前で起きたその事件は、にわかには信じ難い〈事実〉だった。ギャラリーの歓声が全身を包む中、隣の部長へ怒号混じりで問い掛ける。
「歩道に、なんて!あんなの、アリなんですかッ」
「ああ!公道バトルなんて、何でもアリっちゃアリだからな!」
なんだか釈然としない。言いたいことはいつの間にか顔に出ていたようだ。周囲のざわつきが引かない中、部長が「田中はサーキットしか知らないんだもんな」と呟いたことが気に掛かった。


「みんな、まだ帰らない方がいいぞ!もうすぐダウンヒル、スタートするぞォ!」
突然、男性の弾んだ声が飛んだ。頂上駐車場からゆっくりと走り出した180SX、その助手席から声を張り上げている。
「レッドサンズのS14と、秋名のハチロクだって?」
「ここでハチロクが見れるなんてツイてるな」
そこかしこで期待を込めた歓声が上がる。どうやらこちらも、走り屋の間では有名なようだ。ハチロクとはAE86のことか。サーキットで見掛けることもあるが──シルビア相手に、この雨の中どんな走りをするのだろう。だけど、今はそれよりもっと、気掛かりなことがある。隣で「カッパでも持ってくりゃよかった」とぼやく部長へ声を掛けた。
「部長。妙義の、……ドライバーさんの名前って知ってますか」
「シビックは庄司ってやつ」
「いえ、Rの……」
「32は確か、中里っていったかな」
「……中里さん」
私はその名をきっと、忘れないのだろう。薄っすら汗ばんだ掌を幾度か握り、夢子は小さく頷いた。
「いやぁすげー楽しかったわ。ありがとな」
やがて隣から上がった部長の声は、まるで一仕事終えたかのような充実したものだった。
「私も、楽しかったです。走り屋のチームって、男の人ばっかりなんですね」
「まァ大体、男所帯だろうな。ウチの部だって女は田中一人だし」
「……女は入れてもらえないんでしょうか」
「イヤイヤ、やめとけって。ナイトキッズはガラ悪いって聞くぞ。……つーか田中、公道バトルには興味ないんだろ」
ここに来る前の自分なら肯定した筈だ。ただ、即座に否定もできないで居る自分に夢子は気付いていた。冷たく降る雨は、次第に強くなってきている。
「どうする、下りも見てくか?」
「……私はどちらでも」
「んじゃ、バトルの邪魔になんねーうちに帰ろうぜ。風邪引いちまうよな」
「すみません。運転、お願いしてもいいですか」
「珍しー。ホントにいいのかよ」
「はい。今、テンション高すぎてまずいです」
随分久しぶりに座った助手席で、フロントガラスを流れていく雨粒を眺めていた。先日交換したばかりの新品ワイパーはよく働いている。運転をお願いした部長はなんだか楽しそうで、そんな気持ちで運転されるなら車も嬉しいだろうな、とぼんやり思う。妙義を後にするのは、少しばかり名残惜しい気がした。秋名のハチロクも赤城のS14も、ちょっと見てみたかったな……きっと、また来よう。例えば私が男なら、こんなに悩むことなくチームの──『妙義ナイトキッズ』のメンバーになれるのかな。公道バトルの経験がなくても、受け入れてもらえるだろうか。もしかしたら、オーディションみたいなものがあったりするのかもしれない。私が公道で闘うために、必要なものは何だろう。これまでサーキットで学んできた、セオリーやテクニックとは異なるものだろうか。もっと筋肉つけて、今までどおりサーキットにも通いながら、公道バトルの勉強……と言うのかは分からないけど、
田中、なに笑ってんだ」
信号待ちの間に運転席から飛んだ、部長の呆れ声。それには答えず、フフンと楽しげに鼻を鳴らす助手席の横顔に、部長は小さな企みを感じた。



夢子が男性を装って愛車と共に妙義へ向かったのは、秋が深まりつつある週末のこと。このために髪を切って、大学構内でメンズ服や立居振る舞いを勉強した。もともと女子が少ない学部のため、参考にする相手には困らない。一応、準備は万端。うまくいくといいけど。夜は更けたが〈走る〉には早い時間帯ということもあり、駐車場に居る人数はそれほど多くないようだ。ナイトキッズのメンバーらしい人に声を掛けて、入れてもらえるように頼んでみよう。できれば相手が一人で居る時に。駐車場の隅、売店付近に停めた愛車。運転席で張り込み気分を味わいながら夢子は待った。ふと、ミラーへ目を遣る。長めの前髪、アシンメトリーに作った毛束を指先で整えながら気持ちを落ち着ける。しばらくして自販機そばのベンチに腰を下ろした一人の男には見覚えがあった。ミラノレッドの、シビックの人。今の夢子より幾分長髪に思えた。脚を放り出して、カーゴパンツのポケットを掌で探っている。小銭を探しているのか……それとも煙草だろうか。

(今だ。今、行かないと後悔する)

決心を固めた夢子は運転席から飛び出すと小走りで彼へと近寄っていき、精一杯男っぽく作った声で「すみません」と呼び掛ける。
「あの。おれ……ナイトキッズに、入りたいんですが」
彼は別段驚いた様子もなく立ち上がり「車は?」と問いを返した。
「CR-Xです。サーキットには行きますけど、ストリートの経験はあまりなくて」
「うちは来る者拒まず、去る者追わずってスタンスだから気にすんなよ。歓迎するぜ」
夢子は俯いて安堵の息を吐く。一歩、踏み出せた。だけどきっと、自分にとっては大きな一歩。
「いっこ、聞きたいンだけどよ」
顔を上げた途端視線がぶつかり、怪訝な表情を浮かべた彼は迷うことなく核心を突く。
「なんで男のカッコしてんだ?」
「いえ……あの、どうして──」
「どうしても何も……お前、どう見たって女だろ。背は高い方かもしんねーけど」
前言撤回。踏み出した一歩目は落とし穴へ、それはもう勢いよく突っ込んでいたらしい。僅かに後ずさるが、彼はすかさず夢子の手を鷲掴んで袖口へ指先を這わせ「こンな細い手首の男が居るかよ」と薄笑いを浮かべる。

(部長。あなたが推してるミラノレッドのシビックの人は、見た目どおりガラが悪いですよ……!)

左手首に彼の体温を感じたまま考えを巡らせた後、夢子は観念したかのように口を開いた。
「中里さん、に……」
「あ?」
「……中里さんの、近くに行きたくて……。女は、チームに入れてもらえないかもしれないから……」
「だからって、ンな格好までするのか。はあ──ったく、羨ましいぜ毅のヤツ」
呟きと同時、どこか名残惜し気に熱が離れていく。程無くして〈彼〉の名前だと気付いた。
「中里さんの名前、毅さんっていうんですね」
「オレは庄司慎吾。忘れンなよ」
本名を名乗らなければいけないと思った。既に、自分が女であるということはバレているのだから。
田中……夢子、です。名前、ここでは秘密にしてもらえますか」
「可愛い名前なのにな、夢子チャン」
「男のカッコしてる意味がなくなるじゃないですか」
愉快そうに笑った彼が携帯電話を取り出す。連絡先を交換し「これで共犯」と言い放った後、夢子の愛車へ視線を遣った。秘密はあっという間にバレたけど、彼は妙義で〈本当の自分〉を知る唯一の存在になるかもしれない。
「大事に乗ってンのな」
「親戚のお下がりですけど、気に入ってるんです」
白色のボディライン、そしてドアに羅列してあるステッカー群を眺める慎吾が「自動車部?」と目を見張る。
「はい。うちの部長、あなたのファンみたいですよ」
いや、と呟き『自動車部』前の大学名を指した彼は、財布から学生証を取り出し夢子の眼前へ突き付けた。
「……同じ……」
夢子も財布に入れている学生証を提示し、互いに同じ大学の学生であることを確認する。
「学部違うから講義被らねえだけで、どっかですれ違ったりはしてるかもな」
「はぁ、すごい偶然ですね」
「運命だと思ってくれて構わねェぞ」
「間に合ってます」
学生証をしまいながら適当に答えたその時、聞こえた音。夢子は間髪入れず駐車場の出入り口を見据える。
「毅の32か。耳、いいンだな」
「音が、忘れられないんです」
ここで──彼がFDに負けた、あの時の音。孤高のロータリーサウンドにさえ引けを取らない、身体に深々と突き刺さる闇色の咆哮。今はこんなに近くて、だけどこんなにも遠い。
「とりあえず行こーぜ。新メンバー紹介、ってことで話つけてやるよ。会いたかったンだろ」
「で、でも心の準備的なものがまだ、」
「んじゃ今すぐ準備しろ」
頭頂部をポンと一瞬撫でられた夢子は、なんとなく彼なりの激励を感じて笑った。

慎吾に促されて〈彼〉に近付くにつれ──夢子の心臓はまるで早鐘を撞くように高鳴り、全身に響き始めている。やがてこちらを視認したGT-Rの彼が、訝しむように束の間、眉根を寄せた。
「毅。こいつ紹介するぜ」
「友達か?」
「まァ、大学の知り合い。自動車部だぜ。チームに入れろっつーから連れてきた」
背中を押してくれた慎吾の掌は優しかった。ガチガチに強張っていた身体が少し、ほぐれた気がする。
「は、はじめまして、田中といいます。以前、毅さんが走るのを見て……あの、自分はCR-Xなんですけど、ええと……憧れてます」
一礼の後、ストレートな視線と支離滅裂な憧れ宣言を受けた毅は一瞬面食らったようだが、ふと表情を緩めて会釈を返す。
「ありがとう。これからよろしくな」
メンバーからの呼び掛けを捉えた毅が「それじゃ、また」と背を向けた途端、夢子の膝はガクガク震え始めた。
「仔鹿か」
「しゃ、しゃべった……っ!」
中腰であわあわと謎の動きを繰り出す夢子を眺め、きっと喜んでいるのだろうと勝手に結論付けて慎吾が頷く。
「ドサクサに紛れて名前呼んでやんの」
謎の動きがぴたりと止まり、瞬時に顔色が変わる。どうやら覚えていないらしい。まったく、見ていて飽きないやつだ。
「……女だってバレてない、かな。結構暗かったから……」
「毅が鈍感なだけだろ。オレはちゃんと気付いたぜ」
誇らしげに自らを指した慎吾が視線を巡らせ「そろそろ挨拶回り行くか」と呟いた。つられて夢子も周囲を見回すと、車もメンバーも少し増えてきたように思える。
「お前、おネェキャラでいいよな」
「イヤちょっと、何がいいんですか」
「その方が余計な詮索されないで済むだろ。お前の仕草完全に女子だぜ、ジョシ」
頭を抱える夢子の肩へ手を回した慎吾は、当分退屈しないで済みそうだと唇から笑みを漏らした。



妙義山の頂上。『妙義ナイトキッズ』メンバーが集まる駐車場に、冬の訪れを確信させる冷たい風が吹く。
「うお、さっみー」
「乾燥してるし、ちゃんと保湿しないと」
「はは。田中はマメだなー」
慎吾の提案による〈おネェキャラ〉は妙にウケてしまい、不本意ながらもチーム内で定着してしまった。気付かないうちに女らしい仕草が出てしまっても怪しまれないし、一方的にでも距離を縮められるし、意外と便利なものかもしれない。ただ唯一〈彼〉に対しては、未だ緊張と敬語が外せないままで居る。
田中
呼び掛けられた声に「はい」と答え、身体ごと振り向いた。視線の先、毅は愛車を指差して問う。
「良かったら、助手席に乗ってみるか?」
喉の奥から奇声が飛び出しそうになった夢子は、ぐっと拳を握り締めて力を込める。
「……ぜひ、お願いします」
冷静さを装ってみたものの、足取りは浮かれて口元も緩む。小さな咳払いをひとつ、彼の愛車・R32の助手席へ腰を落とす。運転席に居る毅と、さほど距離は無い。手を伸ばせばすぐ触れられる近さに彼が存在しているということに、夢子は興奮を隠せない。そわそわと落ち着かない様子の夢子を見遣り、毅が苦笑を零す。
「そんなに乗りたかったなら、乗せてくれって声掛けろよ」
「いえ、その、ご迷惑かと」
全然。夢子にはそう聞こえた。直後、走り出したR32の助手席で夢子は絶句する。それは未知の体験だった。車種が異なるとはいえ、自分の走り方とは全く違う。コースを知っている、熟知している人の走りだ。上りと下りを3往復後、第1駐車場へ戻ってきたR32。助手席の夢子は感動しきりといった表情で、鼻息荒く両拳を握り締めていた。すごい、と素直な感想が口をついて出る。
「おれ、サーキットでよく同乗しますけど、こんなん初めてです。ありがとうございます!」
「そんなに喜んでもらえるとは思ってなかったな。俺も、嬉しいよ」
運転席で笑う彼を、直視出来ない。本当は、もっとあなたを見ていたくて、もっとあなたの近くに居たくて。もたもたとシートベルトを外した夢子は「ありがとうございました」と頭を下げ、ドアを開ける。アスファルトを踏み締める足取りはのろのろと重い。『後ろ髪を引かれる思い』って、こういうことなんだな。溜息が漏れる。
田中。落としたぞ」
背後からの声に振り向くと、毅は何かを右手に掲げている。大きさから見ると、カード状のもの。そして色からすると、恐らく〈学生証〉。何が、載っているんだっけ。確か──大学名、学部、学科、学籍番号、氏名、生年月日──顔写真。ポケットに差していた財布から落ちたのだろう。一番知られてはいけない人の前で今、秘密が露見してしまった。
「……田中……夢子……?」
訝しげに読み上げられたのは、学生証に記されている本名。瞬間、背筋が凍り付く。彼から名前を呼ばれることをずっと望んでいた。現実となった今、こんなにも恐ろしい事だとは思ってもいなかった。

「い、妹です」

咄嗟に吐いた嘘が自分を縛る。嘘に嘘を重ねて、嘘で塗り固めて、その上でバランスを取るしかなくなるのに。
「学生証、失くしたんで再発行申請してて……それ、借りたんです。図書館、学生証で出入りするんですよ。妹──夢子は今日、講義なくて、」
言葉が、嘘が続かない。例えば、自分自身の身分証を──免許を見せろと言われたらそこでおしまい。この嘘には穴が多すぎる。せっかく毅さんの隣に乗せてもらえたのに、妙義に来るのは今日が最後になるなんて。まるで絶望の淵に独り取り残されたような心細さで、泣いてしまいたいと思った。でも泣くなんてダメだ。今までが全部、無駄になってしまう。
「そいつ、32好きなンだってよ」
肩を叩かれると同時に慎吾の声が聞こえ、神の救済にすら思えた。
「知ってるのか、慎吾」
夢子だろ?一回連れてきたことあったよな。32に会いたいッつってたけど、あの時は毅居なかったンだよ、なあ」
言葉の終わりに向けられた眼差しは驚くほど真摯に感じられ、夢子は浅く頷く。
「どっか連れてってやれよ。夢子もクルマ好きだし、横に乗せてやるだけですげー喜ぶぜ」
夢子に背を向けて歩き出しR32のヘッドライトの傍らに立った慎吾は──なんのかんのと毅を言いくるめ、やがて日時の約束まで取り付けてしまった。
「帰ったら夢子に教えてやれよ。きっと驚くぜ」
毅から受け取った学生証を持ち主へ手渡しながら、慎吾はやや大きな声を上げる。ちゃんと、毅にも聞こえるように。戻ってきた学生証を財布にしっかりとしまい直した夢子へ、慎吾は「オレの横にも乗せてやるよ」と顎で促した。

夢子が助手席に腰を下ろし、シビックが走り出した途端。運転席から沈んだ声が上がる。
「悪い。勢いであんなこと言っちまった」
そんな、と言いかけた夢子が首を振る。ドライブの約束をしてくれたのに、何を謝る必要があるのか。それを伝えようとした途端。
「服とか化粧とか、大丈夫かよ」
あ、と声が漏れた。髪を切ってから、女性ものの服は全く買っていなかった。元々オシャレな方ではないけれど、手持ちの服はそもそも〈デート〉に向いていないものばかりに思える。慎吾が取り付けてくれた約束の日まで、あまり時間もない。無性に焦りを感じた。
「あの、女子っぽい服のアドバイス、してくれませんか」
「オレ好みに仕立ててどーすンだ」
「それはまぁ、そうですけど……。どうしよう……誰か、お願いできないですかね?慎吾さんて顔広いじゃないですか」
長めの沈黙が訪れた。自分はなにか、変なことでも聞いてしまったのだろうか。
「……心当たり、あることはある」
ぽつり、慎吾が苦い顔で呟いた。



翌々日。近くに着いたと慎吾からの電話を受けた。自宅を飛び出し、待ち合わせ場所へと急ぐ。小走りで近寄った先、仏頂面の慎吾と共に居た二人の女性。慎吾とは対照的に、とても楽しそうである。慎吾が右手を上げ「よう」と適当な挨拶を寄越したが、二人はそれを遮るように夢子の傍へ駆け寄った。
「はじめまして!あたし沙雪。慎吾から話聞いてるよー♪」
「こんにちは、真子です。よろしくね、夢子ちゃん」
シビックの隣に停められた車は、碓氷峠最速の〈青いシルエイティ〉。女性ドライバーのことは噂に聞いていたが、知り合いだったのか。彼女達の勢いに気圧された夢子は頷くのに精一杯だった。
「はじめまして、田中夢子です。近くまで来てもらってすみません。よろしくお願いします」
下げた頭を上げきらないうち、両側から細腕がガッチリと絡められる。直後、沙雪の弾んだ声。
夢子ちゃんの変身計画、あたしらにまかせてね!」
豪快な誘拐さながら車内へ放り込まれる瞬間、背後から慎吾の声が飛んだ。
「生きて帰ってこいよ、夢子
自分の置かれた状況に理解が追い付かないまま彼へ視線を遣る。こちらへ手を振る慎吾の表情は、何故か今生の別れを感じさせる真剣なものだった。
うきうきと走り去っていくシルエイティを見送り、慎吾が呟く。
「なんで女は着せ替えが好きかねぇ」
理解し難い、と首を振り空を仰いだ。快晴の鮮やかな青色が目にしみた。




姿見に自分を映し、夢子は細く息を吐いた。ここまで〈女の子らしい格好〉をしたのは初めてだな。自分で言うのもアレだけど、今日の私、結構かわいいぞ。ウィッグは地毛に近い色を選んだため、不自然さを感じない。伊達眼鏡を掛けた指先、派手じゃないけど華やかなネイル。『夢子ちゃん、自信持って!』沙雪と真子の笑顔を思い浮かべ、足に慣らした靴を履く。

待ち合わせ場所に居るのは、昨夜も会ったR32。こちらへ手を挙げる毅を見つめ、夢子は決めた。今日は精一杯、女の子らしく居よう。
「こんにちは、夢子です。兄がいつもお世話になっています」
自分でも驚く程の変身だ。まさか、同一人物だとは気付かないだろう。挨拶から当り障りのない世間話を終え、運転席から投げ掛けられた〈兄〉の話に、少し肩へ力が入る。
「アドバイスを素直に聞けるし、何より本人が努力してるよ」
「そう、なんですか」
妙義には沢山の人が居るのに、彼は〈私〉を見てくれているんだ。──嬉しい。そんな人を私は、騙している。鎮まらない罪悪感が心を刺した。

ドライブと食事を終えた宵の口。R32は夢子の自宅付近に到着し、ハザードランプが点けられた。本当は、帰りたくない。それを悟られないよう明るく、お礼を言う。
「ありがとうございます。すごく、楽しかったです。それと、ごちそうさまでした」
一呼吸の後、運転席から胸を躍らせる問い掛け。
「また今度、誘ってもいいかな」
かあっと頬が熱くなった。黙ったままで居る夢子へ、毅が言葉を続ける。
夢子ちゃんが良ければ、だけど」
いいに決まってるじゃないですか、そう叫びたかった。どう頑張っても口元が緩んでしまう。
「次もまた、ここに乗せてくれますか」
「勿論。行きたい所があるなら、どこでも連れていくよ」
連絡先を交換した携帯は、沙雪と真子による渾身のデコ電。小物にも手を抜かない彼女達のおかげで、最後まで女の子らしさをアピールできたに違いない。頷き、遠ざかっていくテールランプを見送る。R32が見えなくなると、何故か突然テンションが高まった。拳を突き上げて言葉にならない雄叫びを上げると、どこかで激しく犬が吠えた。


「毅さん。昨日は本当、ありがとうございました。夢子、すごく喜んでましたよ」
翌日は月が綺麗な夜となった。夢子は何食わぬ顔で〈兄〉を装って妙義へ愛車を走らせ、毅に謝意を表した。
「いや、俺の方こそ。楽しかった」
「あいつ、毅さんに失礼なことしませんでしたか」
尋ねられた毅は一瞬考えるような素振りを見せたが「大丈夫」と呟き相好を崩す。柔らかな笑顔に、夢子の心臓がどきりと揺れた。愛車へ乗り込む毅の後姿を見つめるが、不安は拭いきれない。気付かないうちに何か、やらかしてしまったのでは──
「何だよあいつ、超キゲンいいじゃねえか」
憎々しげに吐き捨てられた言葉を聞きつけた夢子が「慎吾さん」と振り返る。
「慎吾でいーよ。毅はお前……の、妹のこと気に入ったンだろ」
「そう、なのかな」
「嬉しくてしかたねーって感じだな。すげームカつくけど」
「もしそうだとしたら……おれ、ものすげー嬉しいけど」
慎吾の苦笑につられ、笑みと白い吐息が浮かんだ。毅は勿論、慎吾もメンバーもアドバイスをしてくれるから、妙義を走るのは楽しい。次の約束が決まり、仲良くなった〈女友達〉と碓氷峠で待ち合わせて作戦を立てた。服のコーディネートや化粧にもだいぶ慣れてきた、と思う。夢子の一人二役は至って順調だった。

幾度かのドライブを重ねて縮まった距離、そこから先を期待する自分が居る。私は、触れ合う指先の愛しさを知ってしまった。彼が好きで、好きで、好きで。好きすぎてつらいなんて、物語の中だけだと思っていたのに。彼に会いたいけれど、こんな気持ちで男を──兄を装っても、本心を隠しきれる筈がない。自然と、妙義山から足が遠のいていく。例え電話だけでも、繋がっていられるなら幸せだった。いつもの他愛無い会話の終わりに、毅が問う。
『あいつは、元気?』
「……兄は今、課題が忙しいみたいで……」
そう、と吐息混じりの声が聞こえる。
「走りに行きたい、とは言ってましたけど」
ごめんなさい。全部、嘘なんです──。通話を終え、携帯をきつく握り締める。なんで、こんなことになっちゃったんだろう。男のフリなんかしなくても、メンバーに加えてもらえたのかもしれない。妹が居るフリなんかしなくても、あの時正直に話していたら。今更どうしようもないことを考えて、考えて。苦い溜息ばかり、込み上げてくる。

公道を知ったからこそ、サーキットを更に楽しめると思っていた。実際──走ることは楽しかったし、改めて学ぶ事も多い。でも、今日はあんまり楽しくない。なんでかな、思い通りに走れない。自動車部の定例走行会。走り慣れた筈のコースに苦戦する夢子は、苛立ちと共にヘルメットを脱いだ。上気した頬に、冷たい空気。部長は夢子へスポーツドリンクのペットボトルを手渡し、確認するように訊ねる。
「調子が悪い、と言うより集中できていない」
「……はい」
「前回より随分タイム落ちてるぞ」
「すみません。次、気合入れて行きます」
「うむ。期待してっからな」
何が原因か──自分がいちばん解ってるんだ。頷いた夢子はヘルメットとペットボトルを抱え、足早に愛車へと向かう。後姿へひらり、雪が舞った。


髪を切ろう。そして、妙義へ。毅さんに、会いに行こう。私には、話すべきことがあるから。


捨てたはずの気持ちを掬い上げて確かめ、愛車を駆って夜の妙義山を目指す。県立妙義公園、第1駐車場。数日降り続いた雪は夕方から止んでいる。彼に声を掛けるには勇気が必要。それでも怯むことは許されない。深呼吸をひとつ、夢子は心を決め足を踏み出した。
「毅さん」
田中。久し振りだな」
「あの──おれ、毅さんに話したいことがあって。今、いいですか」
真っ直ぐな視線を受け、毅は一度頷いて愛車へ促す。走り出したR32は程無くして第4駐車場に到着し、停車後にライトが消された。エンジンの鼓動がシートを僅かに震わせている。
「寒くないか?」
「大丈夫です」
モッズコートが擦れる音の後、毅からの問いに強張った声で答えたきり、言葉を続けようとしない。微かな違和感を拭い助手席を見遣ると、彼は切羽詰まったような表情で俯いている。毅は口ごもり、探るように尋ねた。
「話って、何だ」
彼は手にしていた紙袋から何か取り出し、自ら装着していく。長髪のウィッグ、眼鏡……毅には、確かに見覚えがあった。やがて変身を遂げた〈彼女〉は眼鏡越しにこちらを見つめ、深々と頭を下げた。
「嘘、ついてました。妹とか、兄とか居ません。毅さんと会ってたの、全部──私です。ごめんなさい」
毅は全ての言葉を失ってしまったように、ただ黙り込むしかなかった。何を言うべきか全く分からなくなり、唾を飲み込む。
「毅さんの走りに、車に、…………毅さんに、憧れて。少しだけでも、近付きたかったんです。慎吾と、同じ大学なのは本当です。学部は別で、ここに来てから知りましたけど……」
頭を上げた彼女は眼鏡とウィッグを外し、紙袋へしまい込んだ。がさがさと乾いた音が車内に大きく聞こえている。
「本当に、すみませんでした。もう、妙義には来ないつもりです」
沈黙に押し潰されそうだ、と夢子は唇を結ぶ。今まで生きてきた中で、こんなに不安な気持ちになったことはなかった。彼はいつも、私に〈初めて〉を教えてくれた。ここで彼に、彼のR32に会えただけで良かった。きっと、いい思い出になる。紙袋を抱えて、助手席のドアを開けようと左手を泳がせた途端。
「いや。また来ればいい。俺も、田中に──会いたいんだ」
穏やかな声が運転席から投げ掛けられる。夢子は持ち上げた左手を、腿の上で握り締めた。
「……私のしたこと、怒ってませんか」
「嘘とはいえ、悪気があってのことじゃないだろう。男の格好をしているのも、理由が」
そこまで口にしたところで、毅の顔が強張った。
田中は、このためだけに髪を?」
「ええ。毅さんて……髪、長い方が好きですか?」
「ま、まあ……どちらかといえば」
「……そう、ですか」
それじゃ、これから伸ばします。そう呟いた彼女は、襟足に触れて微笑を浮かべた。こちらに向けられた、どこか照れくさそうな表情は柔らかく感じられる。毅が見る限り、だいぶ落ち着いたようだった。

俺は嘘をついた。本当は、髪の長さなんて──短くても長くても──どちらでも構わないと思う。例えば、君の髪が長くなっていくのを見ていたい、とか。君の小さな変化をすぐに感じ取れるくらい、いつも傍に居たい、とか。……こんな恥ずかしい事、間違っても口に出せるわけがないだろう。だから俺は、彼女に嘘をついた。

夢子
助手席の彼女を見つめ〈名前〉を呼んだ途端。彼女を──夢子を、好きになっていたことに俺は気付いてしまったのだ。紙袋が足元へ滑り落ちた。彼女が俯き、紙袋を追うその視線を遮るように頬へ、耳へ、髪へ指先を滑らせていく。みるみるうちに硬直し、大きく目を見開いたままで居る彼女は、途惑いながら言葉を紡ぎ始める。
「た、毅さん。ずるいです、こんな……」
叱られた気がして手を離した途端、それを咎めるように慌てた声が飛んだ。
「いえ──びっくり、しただけなので……やめないで、ください」
再び触れた彼女の頬は、燃えるように熱く感じられた。とうに終わった夏が今、毅の指先にだけ戻ってきたように。
「悪かった。その……気が、付かなくて」
「私が女だって気付いたのはたぶん、慎吾だけですよ」
幾度か首を振り、苦笑を乗せた吐息が零れる。窓が曇り始めていた。車体の僅かな揺れを感じた直後。夢子の両頬に、目元に、耳朶に、大きく温かい掌と、節くれ立った指の感触。運転席から身体ごとこちらを見つめる毅と、しっかり視線を合わせて。

「俺以外の名を呼ぶな、夢子

低く穏やかな声が、身体へ心地良く染みていく。あんなに遠かった彼が、今はこんなに近くて。目を閉じてしまうことさえ、もったいないと夢子は思った。夢子が伸ばした手は少し躊躇った後、愛しく温かな掌へ重ねられる。ここから先は──闇色に染まる、車内だけの秘密。



[haiR×liaR×32R]END.
theme.車に関する10のお題 no.03[R]
up date.2012/03/02