102


秋は眠い。……いや、もちろん春も夏も冬も眠いけど。充分に陽が当たる窓際の席、拓海は今日何度目かの大きなあくびを噛み殺し、温い机へ突っ伏した。
「……藤原くん。3年の、田中さんって人が呼んでるよ」
途端、上方から遠慮がちに話し掛けられて顔を上げる。机の傍にはクラスメイトが一人所在無げに立っていて、教室のドアの辺りを指していた。自分を呼んだ人物を目に留め、拓海は傍らの彼女に「ありがと」とだけ言って席を立った。

「こんにちは、夢子さん」
「拓海くん今寝てた?」
「寝てないですよ」
「ほんと?あやしー」
目の前で笑っているのは、〈常連客〉の田中夢子。彼女が拓海の教室へ来る目的は、ただ一つ。たまには違う用で来てくれてもいいのに、と拓海は唇へ苦笑を浮かべる。
「今日は何でしょうか」
「今日はこれをお願いします」
夢子は一枚の紙片を差し出す。二つに畳まれた小さな紙片を受け取った拓海は、それを開きながら彼女へ問うた。
「何時頃になります?」
「んー、今日から路上教習なの。遅くても8時には行けると思うんだけど、大丈夫?」
「はい。オレも部活なんで、帰ったらこれ取っときますね」
紙片を顔の高さに掲げて拓海が笑う。それにつられて夢子も笑みを浮かべた直後。

夢子、早く早くー!!」

彼女の名を呼ぶ──廊下の端から端まで届きそうな──大声が飛んだ。友達だろうか、と拓海がそちらへ視線を移すと、夢子が「うるさくてごめんね」と苦笑を浮かべる。ここ──1年の教室に3年が居ることはそれほど珍しくはないが、突然の大声に驚いた生徒が数人、教室から顔を覗かせている。夢子は胸に抱えている、家庭科の教科書を拓海へ向けた。
「これから調理実習なんだ。うまく出来たら持ってくよ」
「えーと……がんばってください。待ってます」
「うん、ありがと。文太さんによろしくねー」
彼女は拓海へ手を振り、友達の元へと急ぎ足で駆け寄っていく。そのままリズミカルに階段を下りる後姿を見送り、拓海は紙片を手に席へと戻った。

「いよーぅ拓海ィ。何だよソレ」
椅子に腰を下ろした途端、背後からポンと肩を叩かれた。誰の仕業かは見ずとも判る。
「……イツキ」
「さっきの手紙、まさか──ラブレターじゃないだろーな!?」
「そんなわけないだろ」
「なっ……なんで目ぇそらすんだよ!見せろっ!!」
樹は鼻息荒く〈手紙〉を引ったくり、食い入るように字を追っている。しかし間も無く、気が抜けたようにがっくりと肩を落とした。
「……何だこりゃ。油揚げ、ガンモ、木綿豆腐、厚揚げって……お前んちの買物メモじゃん」
「だから違うって言ったろ」
呆れたような拓海の声の途中、4限開始のチャイムが鳴る。拓海はどこか不満気な表情の樹から紙片を取り返し、ポケットへ無造作に突っ込んだ。

チョークの音と教師の声だけが教室に響いている。教科書やノートをめくる音に紛れ、拓海はポケットから取り出した紙片を開いた。少し丸みを帯びた可愛らしい字が並んでいる。その佇まいはどことなく夢子らしい、と拓海は微笑う。
元通りに畳もうとした時、紙の隅に──犬だか猫だかわからない──妙な絵が小さく描かれていることに気付いた。それがツボに入り、盛大に吹き出して咳き込む拓海──教室のざわめきに気付いた教師は、板書の手を止め怪訝そうに振り向いた。
「藤原、どうした?大丈夫か」
「……大丈夫です。すみません」
「じゃあこれ、問1。前出て解いてみろ」
「……はい」
「次、問2……今日は2日だから出席番号2番、問3は12番な」
教師は黒板の数式をカツカツとチョークで叩き、生徒を指名していく。紙片を手早く畳んだ拓海は、小さく溜息を吐きながら立ち上がった。


「ただいま」
「おう、おかえり」
拓海は帰るなり鞄を放り、上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げて手を洗う。着替えを後回しにし、いそいそと支度に取り掛かる拓海を見遣り──彼女からの〈注文〉があったことを文太は知る。
夢子ちゃん、何か言ってたか」
「ん……いや、別に何も」
「そうか」
彼女からの言伝があることは内緒にしたかった──それが、父に対する仄かな嫉妬だということに拓海は気付いていない。

「拓海。豆腐屋継ぐか?」

唐突に背中へ飛んだ父の言葉に、今しがた洗い終えたばかりの拓海の手が止まった。指先から水が滴り落ちる音だけが断続的に、拓海の耳へと届いている。拓海は少し考えるように数回瞬きをして唇を噛み、テレビの前であぐらをかいている父へ視線を投げる。だが父の視線は拓海を通り過ぎ、店舗の入り口付近へ注がれているようだった。
「……やっぱり、継がなきゃダメか?」
「いいや。お前の好きにしたらいいさ」
文太は自分へ言い聞かせるように呟いた後、その話題に興味を失くしたように新聞へ手を伸ばす。紙面を広げる乾いた音が、どこか淋しげに聞こえたのは──拓海の思い過ごしだろうか。
「……何だよ、自分から話振っといて」
ぶつぶつと文句を言いつつも、内心に芽生えた安堵感は否定出来なかった。手を振って水滴を飛ばし、夢子からの注文に取り掛かる。水温は既に秋の手触りを持っていた。

揃えた商品と注文書とを照らし合わせて確認した直後、拓海はこちらへ近付いて来る自転車の音を捉えた。控え目なブレーキの音、スタンドを立てる音。それから間も無く、彼女の声。
「こんばんはー」
「──夢子さん、いらっしゃいませ」
「遅くなってごめんね」
「いえ、オレも部活で、さっき帰ってきたとこです。路上、出たんですか?」
「ん、うん。すっごく緊張したけど、教官が優しかったから大丈夫だったよ」
まだドキドキしてる、とはにかむように笑い、夢子は提げていた紙袋を拓海へと手渡す。
「これ、かぼちゃプリン」
「あ、家庭科のですか」
「うん。良かったら食べてみて」
「はい、いただきます」
紙袋を受け取った拓海が律儀に頭を下げるのを見て、夢子は「どうぞ」と微笑った。
「あの、用意できてるんで、ちょっと待っててください」
「はーい」
拓海は受け取った紙袋を畳の上へ置き、注文品を手際良くビニール袋へ詰めていく。

「いらっしゃい、夢子ちゃん」
「あ、文太さん。こんばんは」
「もう仮免なんだって?うちの車、乗ってみるかい」
「わぁ、それはすごく魅力的なんですけど……その、……ボッコボコにしちゃいそうなんで……」
口の中でもごもごと辞退の意思を転がしていた彼女は、やがて恐る恐るといった表情で文太を見つめた。
「あとで、ちゃんと免許取れたら……お願いしてもいいですか?」
「ああ、勿論。待ってるぜ」
「はい」
心底嬉しそうに顔をほころばせる夢子を見遣り、拓海はいつか彼女を喜ばせたい──と漠然と思った。

「お待たせしました、夢子さん」
「ありがとー」
商品を手渡して代金を受け取った拓海は、先程夢子へ渡したばかりのビニール袋を指した。
「今日はいつもより多いんですね」
「え?だって豆腐の日だし」
拓海の小さな疑問に対し、彼女は当たり前のように理由を述べる。それに対しての反応が皆無であることを訝しんだ夢子が曖昧な表情の親子を見遣り、まったく理解されていないことに気付いた。
「……あれ?10月2日だから、ゴロ合わせでとうふ、って……お豆腐屋さんがスルーですか!?」
「オレ今気付きましたよ。……親父、今日何かしたか?」
「いいや、通常営業だ」
「……一人で盛り上がっちゃって恥ずかしい……!」
なにやら悶えている夢子を、親子が温かな眼差しで見守っている。やがて我に返った夢子は、コホンと咳払いをして深く頭を下げた。
「……ありがとうございました。また来ますね」
「はい。よろしくお願いします」
「気をつけてな、夢子ちゃん」
自転車の前カゴがいっぱいになる程の買物を終え、夢子は二人へ手を振りながら家路に着く。よろけるように路地を曲がっていく自転車を見送り、親子はどちらからともなく顔を見合わせた。
「晩メシできてるぞ」
「着替えてくる」
鞄と上着を手に取り、拓海は自室へと向かう。文太は無造作に置かれた紙袋をしげしげと眺め、やがて「かぼちゃプリン、か」と呟いた。


暗く冷え切った部屋を照らす蛍光灯の点滅は、幾度か沈黙を含む。拓海はポケットから紙片を取り出すと机の引き出しを開け、奥へと押し込んだ。そこには同じような紙が何枚も眠っている。ノートの切れ端やルーズリーフを用いた、夢子からの注文書。ただの紙片が、拓海にとってはラブレター同然の──いや、それ以上の意味を持っていた。

あといくつ、受け取ることが出来るだろう。

夢子の指先をぼんやりと思い浮かべながら、拓海は引き出しを閉めた。それから手早く着替えを済ませ、電灯を消して階段を下りる。主を失って再び静まる部屋。彼女からの手紙だけが、確かにそこに在った。



[102]END.
title.10月2日&毎月12日は豆腐の日
theme.夢小説家に100+aのお題 no.009[ラブレター]
up date.2008/10/13