青空、稜線、筑波山。


自分の苗字と晴れた日が大嫌いだった。



登下校や買物で近所を歩いていると、必ずと言っていい程声を掛けられる。
『あらーこんにちは、城島さんのお嬢さん。先生によろしくね』
恐らく、近所に住む〈誰か〉。私が相手を知らないのに、相手は私を知っている。咄嗟に作った笑顔は、卵の薄膜のようにべたりと張り付いてひどく不愉快だ。それを指先で剥がしながら、夢子は自宅の看板兼表札へ一瞥を投げた。
うちは茨城の片田舎で小さな病院をやっている。両親共に医師で、内科や小児科を診る病院。なんとなく体調悪いかなーってときに、とりあえず行くような〈町のお医者さん〉。地域に根差した城島医院の一人娘──それが私の肩書きだ。
院長である父は厳しいひとで、染髪も化粧もピアスもバイトも夜遊びも禁止されている。帰宅が門限の午後6時を過ぎるようなら、必ず連絡を入れること。口を開けば「学生は勉強が本分」と諭すように言ってくる。
……いつからか、私はそんな父を苦手と感じるようになっていた。きちんと目を合わせて話をした最後はいつだっただろう。随分前のことのように思う。


その日も朝から晴れていて、私はひどく憂鬱だった。連日猛暑だ酷暑だとテレビが騒ぎ立て、うちに熱中症の患者が運び込まれることも度々あった。待ちに待った夏休み、のはずが……私のクラスは『進学コース』だから、毎日のように講習がある。本当は行きたくないけど、サボると後々面倒だから仕方なく──ああ、勉強なんてしたくない。
「いってきまーす」
夢子
玄関のドアを開けようとした時、背中へ父の声が飛んだ。振り返った夢子は真っ直ぐに自分を見る、白衣姿の父と視線を交錯させた。
「帰りは何時だ」
「講習なら、お昼で終わるよ」
「それなら1時までには帰ってこられるな」
「……お昼、食べてくるかもしれないし」
「誰と、どこで」
「まだ決めてない」
「そうか。決まったら……」
「携帯にメールする。いってきます」
夢子は父の言葉を遮るように──いや、父から逃げるように玄関を飛び出した。途端、突き刺さるような陽射しに目が眩む。夢子の心とは対照的な、夏色に澄んだ空。こんなに晴れて、いい天気なのに。私は何が気に入らないのだろう。不意に心の奥で虚しさを感じ、夢子はそれを吹っ切るように早足で学校へ向かった。


夢子、ごはん食べに行かない?」
退屈な講習が終わった途端、前の席から声が飛んだ。
「いいよ。どこ行く?」
「うーん……何食べよ。パン?麺?米?……あ、電話ぁ」
彼女は携帯電話を取り出して通話を始める。
夢子が鞄にノートとテキストをしまい終えるのと同時に、彼女は照れ笑いを浮かべたまま頭を下げた。
夢子、ごめーん。カレシが校門とこ来てるみたい」
「良かったじゃん。すぐ行かなきゃ」
「それより、夢子はどうなの?」
「どう、って……何が」
「好きな人とか、いないの?」
「全然いないねー。出会いもないし」
「確かに出会いはないよねー」
「いや、もう出会わなくていいでしょ。彼氏待ってんじゃない?」
「あ、そーだ。ゴメンね!」
「はいはい」
苦笑しながら友人へ手を振った。どこかふわふわとした足取りで、彼女は教室を後にする。恋人が絶えたことのない彼女を、特別羨ましいと思ったことはない。彼氏がほしいとか、恋愛がしたいとか──そういうことを、自分は望んでいるわけではないのかも知れない。恋愛禁止と明確に言われているわけではないけれど、無言の圧力めいたものは感じている。

────私は、こんな時まで父の〈言葉〉に縛られている。

机に置いた鞄に視線を落とした。寄り道せずに真っ直ぐ帰れば、自宅に着くのは12時40分頃だろうか。夢子は鞄から携帯電話を取り出し、受信メールの[家族]フォルダを開く。父から送信された、ひどく事務的な文章が並んでいる。なんか、家に帰りたくないな。溜息と携帯を鞄へ放り込み、硬い椅子から勢い良く立ち上がった。


ジリジリと肌を焦がす太陽。
「あっつー……」
なるべく日陰を選んで、夢子は黙々と歩き続ける。

しばらくしてたどり着いたそこは、街外れに在る建物。時代に取り残されたような古びれたゲームセンター。自動ドアを開けると冷気が全身を包み、熱と暑さと汗が引いていく。
周囲に客が居ないことを確認すると、夢子はそそくさと一つの筐体へ近付いた。お目当てはダンスゲーム。最新版がリリースされたために誰にも見向きされない旧型筐体は、先月から店内の隅に追いやられている。それでも健気にデモ映像を流し続けていた。どうか撤去されませんように、と祈るように呟きながら、夢子は100円玉を投入した。

4曲分を踊り終えた夢子がエンドロールを眺めながら悦に入っていると、パチパチと手を打つ音が後方から上がった。驚いて振り向いた夢子は、こちらへ拍手している中年男性を目にする。彼は心底感心したといった表情で「巧いんだな、お嬢ちゃん」と賛辞を呈した。
いつから観られていたのだろう、もしやナンパだろうか、などと考えているうち、彼は筐体後方のバー付近まで近付いてくる。容易にパーソナルスペースへ侵入された夢子は、彼と自分を遮るものを頼り無く思い──眉間に僅かな苛立ちを浮かべた。しかし彼はそんなことなど気にも留めず、夢子へ問うた。
「昼メシ済んだか?」
「……まだです、けど」
「よかったら一緒にどうだい?この前できたカフェに行くつもりなんだ」
「……あの、すみません。……ナンパですか?」
警戒心と好奇心を半分ずつ含ませた声で夢子が問いを返す。彼はとんでもないとでも言わんばかりに目を剥き、大きく首を振った。
「オレがいくら女好きでも、高校生には手を出さない」
真顔で言うその人は、どう頑張っても悪い人には見えなかったから──だから夢子は、呆れるように笑って頷いた。
「そのカフェに、ごはん食べに行きましょう」
「お、そうこなくちゃな」
彼は笑い、近くの駐車場に車を停めてあると手短に言った。


薄暗い駐車場の中で確かな存在感を持つその車は、夢子の視線を釘付けにした。
「──34R」
夢子がぽつりと呟いた言葉を聞き、彼は驚いたように「ほう」と息を漏らす。
「知ってんのか。車には興味ないと思ってたぜ」
「はい、正直よく分からないです。でもGT-Rだけは、何て言うか……特別なんです」
「それは嬉しいねぇ」
本当に嬉しそうに──まるで秘密を共有する特別な人間と出会ったように笑って、彼は助手席のドアを開ける。
「さ、乗ってくれ」
やっぱり悪い人じゃないんだな、と夢子は根拠もなく確信した。

「名前、聞いてなかったよな。オレは星野好造」
運転席から朗らかな声。夢子は少し考えた後、自分の名前を口にした。
「──夢子です」
「苗字は?」
夢子は静かに首を振り、拒否の意を示す。自分の苗字が嫌い、などという子供じみた理由を口にすることは躊躇われた。
「それじゃ、オレが苗字当ててみようか」
そんなことできるわけがない、と開きかけた夢子の唇は凍り付く。

「城島。城島夢子だろ」

恐らく彼は知っている。私が『城島俊也』の娘であることを。彼は誰で、私の何を知っているのだろう。助手席で身体を強張らせる夢子を見遣り、彼はそっと笑んだ。
「確かに城ちゃんの娘だな。似てるよ、城ちゃんに」
「喜ぶべきですか?」
突っぱねるような口調は自分でも棘があると夢子は思った。──彼は、気を悪くしただろうか。
「なるほど。嫌いか、父親が」
しかし予想に反して満足そうに笑っている。自分の強がりなど、ひどく幼稚なのだと思い知らされた。
街中の景色は太陽に照り付けられて凶悪な輝きを持っている。
「……嫌いじゃ、ないです。両親のことは尊敬してますし」
「尊敬ねぇ。城ちゃん喜ぶだろうな」
何と返すのが適切なのだろう。夢子は俯いて唇を結んだ。
「知りたくないか?昔の城ちゃんのこと」
彼の言葉に顔を上げる。運転席から投げ掛けられたそれは、ひどく魅力的な誘惑だった。


テーブルへグラスを置いた夢子は、きれいに平らげたランチプレートの上へ紙ナプキンを置いた。
その直後、自分の名を呼ぶ声に振り向く。

夢子

「父さん──」
「よ、城ちゃん」
「……よ、じゃないだろう。何やってるんだ」
「見て分からんか?」
肩をすくめる星野をあっさりと無視した城島は、娘を見下ろして低く言った。
「まったく。連絡一つ寄越さないで」
「なんで、ここ……」
自分を見上げる夢子の視線は、純粋な驚きに満ちている。城島はひどく居心地悪そうに眉根を寄せた。
「ケータイのGPS機能だろう。違うか?」
黙り込んだ城島を見遣り、星野が夢子へ投げ掛ける。かなりの精度で居場所を知ることができるのだと説明すると、夢子は感心したように首を幾度か揺らした。
「帰ってこないから心配で駆け付けた、ってとこか。過保護だなー」
「…………」
「なぁ、夢子ちゃん」
「ねぇ、好ちゃん」
「──どういうことだ!」
取り乱す父を見たのは初めてで、ひどく可笑しかった。
「まぁまぁ。あんまり怒鳴ると血圧上がりますよ、城島センセイ」
「……夢子に変な事吹き込んだり、してないだろうな」
「変なコトってどんなコトですかねぇ」
「帰るぞ、夢子
「あ──待って」
傍らの椅子に置いていた鞄から財布を出そうとする夢子を、城島は右手で静かに制した。
「父さん?」
「好ちゃんは、女性には1円たりとも払わせない。そうだろ?」
「モチロンそうだとも」
ひどく真面目な表情を浮かべ、星野が大袈裟に頷く。不安げに父を見上げると、父も軽く頷いたので──夢子は財布をしまって星野へ頭を下げた。
「ありがとうございます。ごちそうさまでした」
「いやいや。それより夢子ちゃん、また遊ぼうな」
そして放たれたウィンクは盛大で、夢子は吹き出して頷く。
「約束ね、好ちゃん」
「ああ。約束だ」
ひらひらと手を振る友人の子供は、ひどく大人びて見えた。


「まったく、大きくなったもんだよなぁ。……オレも年取るわけだ」
並んで歩く2人の背中を見遣り、星野は苦笑を含めて溜息を吐いた。


「好ちゃんは、世間を2種類に分類してる。〈女性〉と〈それ以外〉だ」
「……え?」
父の言葉が理解出来ず、夢子は助手席で聞き返した。
「何それ、どういうこと?」
「分からないならいい」
「全然わかんないよ」
赤信号で停車した父の愛車──S2000の助手席で、夢子は眼前の横断歩道を眺めている。夏休みに入ったばかり、浮かれた足取りの──制服姿の学生達。他人から見たら、自分もそう見えるのだろうか。間も無く信号が青に変わり、夢子は思い出したことを父へ聞いた。
「今度、プロジェクトDっていうチームとバトルするんでしょ?」
「そんな事まで言ってたのか」
「ほかにも聞いたよ。散々夜遊びしたとか、昔も今も筑波最速は俺達だとか」
「……好ちゃんは大袈裟なんだ。話半分と思え」
「私もつれてってよ、筑波山」
「駄目に決まってるだろう」
「じゃあいいよ。好ちゃんにつれてってもらおー」
「却下」
「……18になったら免許取って、自分の車で行く」
「高校生が何を言う。免許取るのも車買うのも、幾ら掛かると思ってるんだ。俺は援助しないぞ」
「うー……」
言葉に詰まった夢子が、悔しさを代弁するかのように膝の上の鞄をポスポスと叩いた。駄々をこねるようなその仕草を、運転席の父が柔らかく見遣る。
「──夢子と話すの、久し振りだな」
「え?毎日話してるじゃん」
「いや……何て言うのかな。俺のこと、避けてただろう」
「べつに避けてたわけじゃ、」
否定してみたものの、思い当たる節が有り過ぎたため、夢子はそっと口をつぐむ。
「……ごめんなさい」
夢子はそんなに素直だったか」
「素直だよ」
互いに苦笑し、車内に穏やかな空気が漂った。


「ただいま」
「ただいまー」
「おかえり。すぐ見付かったのね」
玄関のドアを開けた夢子は靴を脱ぐことさえもどかしく、早口で母へ問うた。
「母さん。私、大学受かったら免許取ってもいい?」
「いいわよ」
「え、いいの!?」
「教習所も車も、夢子名義の貯金が──」
「母さん!!」
うろたえるような声が後方から上がり、母はようやく自分の失態に気付いたようだ。
「いけない。夢子が3年になったら教えるんだった」
「それ、ほんと?」
「今の聞かなかったことにして。あなた、ご指名ですよ」
「……分かった」
ぽかんと口を開けた夢子は、慌てて靴を脱ぎ父の背中を追う。
「父さん、今の本当?貯金て何?昔、私から巻き上げたお年玉貯金?」
期待を込めた夢子の眼差しが非常に痛い。
「……何も言うな、夢子
「そんなぁー」
「城島先生」
「今行く」

「あ、私手伝う」
夢子が顔の近くで右手を広げた。

「それじゃ早く着替えてらっしゃい」
「はーい」
城島は階段を駆け上がる夢子の後姿を見遣った。そして気付く。愛娘──夢子が、あの頃の妻に似てきたことに。
夢子、好造さんと居たの?」
「ああ。しれっと食事してたよ。まったく、何のつもりだか……」
「妬いてる?」
「馬鹿な、」
夢子があんな風に笑うの、いつ以来かしら」
「……少し、話をしたんだ。夢子と、車の中で」
「へぇ、良かったじゃない。好造さんに感謝しなきゃ」
「きみまでそんな事を言うのか」
城島はうんざりしたといった表情で溜息を吐き、手渡された白衣を羽織った。苦い表情の城島を見遣り、妻は穏やかに微笑を揺らめかせた。
「いくつになっても変わらないものがあるのね」
「何が?」
「男の子同士の友情」
「……男の子、って……」
「昔と変わらないもの。好造さんのこと話すときの、あなたの顔」
「きみはそうやって、俺の事は何でもお見通しって顔をする」
「そんな私に惚れたのは誰だったかしら?」
「俺と──好ちゃんだ」
「ええ、そうね」
妻は勝ち誇ったように笑み、城島へ背を向ける。城島は妻の背中に視線を投げると、胃のあたりを押さえながら弱々しい溜息を零した。



温い風がするすると腕を撫でていく。夢子は帽子のつばを両手で押さえながら、空と山の境をゆっくりと視線でなぞっている。晴れ渡った青空と、濃く茂る緑の山。ここはきっと──いや、必ず──特別な場所になるだろう。
嫌いだった自分の苗字、今では結構気に入っている。晴れた空も、気の進まない講習も、全部を受け入れることにした。諦めとは違う、理解をもって。

夢子が振り返ると、父も同じように稜線を眺めていた。夢子の視線に気付いた父は、唇で笑んでみせた。
「母さんも来れば良かったのにね。せっかく休みなのに」
「ああ、そうだな」
「……あ、でも私がいたらジャマかな」
「邪魔?」
「だってココ、ふたりの思い出の場所なんでしょ?」
「──好ちゃんだな。どこまで聞いた」
「秘密ー」
散歩に行こう、と夢子を誘ったのは父だった。母に声を掛けたところ、あっさりと断られたのだと言う。夢子は日除けの帽子を手に取り「筑波山だよね?」と笑った。

「私が免許取ったら運転させてね」
夢子がS2000を指すと、父は煮え切らないような表情を浮かべたが──しばらくしてから小さく頷いた。
「教習延長なし、学科も一発で取れたら考えてもいい」
「やった!がんばるよー。好ちゃんの34も予約したし!」
夢子、好ちゃんに懐きすぎじゃないか」
「なにそれ。やきもち?」
「……親をからかうんじゃない」
「はーい。ごめんなさい」
小さく肩をすくめて夢子が微笑う。許しを乞うつもりなど毛頭無い顔だ。
「一つも反省していないだろう、夢子
「何言ってんの。娘を信用してください」
父は呆れたように首を振ると、再び筑波山が夏空へ描く稜線に視線を移す。短い影を連れて歩き出した夢子の帽子が、突風に舞い上げられる。慌てて帽子を追い掛ける夢子を見遣った城島は相好を崩し、娘の後姿を追った。



[青空、稜線、筑波山。]END.
theme.夢小説家に100+aのお題 no.097[晴天]
up date.2008/08/24