サイドシートへようこそ


仕事を終えた夢子を待っていたのは、湿気と雨だった。
空を見上げ、次いで足元を見下ろし、疲労感を込めて深い溜息を吐く。天気予報はいつもアテにならない。霧雨より少し強いくらいの、鬱陶しい降り方。まだしばらくは止みそうにないだろう。生憎、傘は持っていない。置き傘は──ああ、先々週持ち帰ってそのままだった。今日のシフトでは、バスは最初から頼りにしていないし……

スニーカーの爪先を地面に軽く叩き付け、次いでぐりぐりと足首を回した。立ちっぱなしの仕事を終えた脚はだるく、重く感じる。タクシーを拾うか、コンビニで傘を買って歩いて帰るか。選択肢はふたつ。やっぱりビニ傘か──

夢子ちゃん」

眉をしかめ、恨めしく雨空を見上げた夢子の名を呼ぶ優しい声。視線をぐるりと巡らせた夢子が見付けたものは、赤くて小さい車。[カプチーノ]という名前は最近覚えたばかり。それはハザードランプを点滅させ、路肩にちょこんと停車していた。

ただなんとなくぼんやりと、会いたいなぁと思っていた人が目の前に居る。

駆け出すように近寄ると、運転席から助手席へ身を乗り出すように「彼」が笑っていた。
「坂本さん、こんばんは」
「ひさしぶり、夢子ちゃん。仕事終わった?」
「はい、これから帰るとこです。タクシー見ました?」
「ああ、うん、何台か見たけど空車はなかったよ」
「そうなんですか……」
困ったな、と夢子が呟き、苦笑するようにはにかんだ。
「オレ送ってくよ。夢子ちゃん、傘ないんだろ?」
「え、でも……ご迷惑じゃないですか?」
「全然。むしろ歓迎」
相好を崩した坂本が、迷う夢子の背を押すように言葉を続ける。
「だから、オレに送らせてよ。風邪ひくといけないし、さっきより雨強くなってるしさ」
「あの……、それじゃ、お言葉に甘えて。お願いします」
「どうぞ」
坂本は助手席のドアを開け、夢子を手招いて笑った。


小さくお辞儀をしてシートへ腰を下ろすと、夢子は静かにドアを閉める。シートベルトを締めるカチ、という音を合図にカプチーノは発進した。

鞄からハンドタオルを取り出し、髪の水滴を拭いながら車内を見渡すように首を傾ける。数秒経った後、夢子は納得したように呟いた。
「初めて見たときから小さい車だなーって思ってたんですけど、二人乗りなんですねぇ」
「ああ。狭いだろ」
「でも、その分──」
近くに居られますね、と続けようとした夢子が、慌ててハンドタオルで顔を覆う。
「どうかした?」
「なんでもない、です」
「そう?」
坂本は一瞬怪訝そうな表情を覗かせたが、弾んだ声を続けた。
「来月決まったから、よかったら見においでよ」
「え、いいんですか?私、ラリーって見たことなくて。一度観戦してみたかったんですよ」
「何回でも来てほしいな。オレ、夢子ちゃんが居てくれたら勝てる気がするんだ」
「……私、が?」
「うん。オレの思い込みかもしれないけど、もしかしたら証明できるかも」
「証明かぁ……」
「そんな難しく考えなくていいから」
「お役に立てるなら喜んで」
「予定合ったらでいいよ。あ、そういえば、夢子ちゃん彼氏できた?」
思い出したように坂本が聞き、夢子はその問いに苦笑しながら首を左右に振る。
「出会いがもう、全っ然ないんですよねぇ」
「え、そう?客とかは?」
「仕事中ずーっと、厨房こもりっきりですよ?」
「あぁ、そっか」
坂本は合点がいったように笑った後、進行方向の黄信号を見遣り速度を落とした。


雨はまだ止まない。小走りで横断歩道を駆けて行く人達を眺めていた夢子は、唇を尖らせて抗議の意を示す。
「と言うか、」
「ん?」
「結構かるーく聞くんですね」
「ああ、ごめんごめん」
「坂本さんこそ、どうなんですか?」
「なにが?」
「彼女ですよー」
「全然だめ。オレも出会いがなくてさ」
「ないですよねー。坂本さんて、いつから彼女居ないんですか?」
「秘密」
「えー、教えてくださいよ」
「それはまた今度ってことで」
車内で約束が幾つか生まれ、夢子はそのどれもが大切で、とても愛しいものであることに気付く。



屋根を叩く雨音。ワイパーが一定のリズムで雨粒を拭う。自宅が近付くにつれ、寂しいような物足りないような──心のどこかが少し落ち着かなくなる。
「あ、その辺で……」
「オッケー」
停車し、ハザードを点滅させているカプチーノの助手席。シートベルトを外しながら、事も無げに夢子が訊いた。

「坂本さん、上がっていきますか?」

彼女の口調はいつもと変わらない。警戒心を欠片も持たず、まるでそうすることが当然であるかのように誘っている。坂本に下心など全く無い、と言えば嘘になる。願ってもない状況の筈、それなのに──逆にこちらが心配してしまうなんて。
混乱しかけ、返答まで少し時間が掛かる。不自然だと思われていないだろうか。やっとの思いで絞り出した声は、思ったよりも掠れていた。
「──か、帰ります」
「それじゃあまた今度、ですねー」
「……あのさ。正直に言うけど……オレ、夢子ちゃんの前だと結構ヤバいよ」
「何がですか?」
「いや、まぁいいや。気にしないで」
「はぁ……」
わかったようなわからないような表情で小首を傾げる夢子を、坂本が柔らかく見つめている。

「それじゃ、失礼します」
「ああ、うん。またメシ食いに行くよ」
「はい、お待ちしてます。ありがとうございました、坂本さん」
夢子は運転席の坂本へ深く頭を下げた後、助手席のドアを開けた。

小走りでマンションへ向かう夢子の背中を見送る。彼女はエントランスの手前で一度こちらを振り返り、ひらひらと右手を揺らして笑っている。さほど遠くない距離、坂本はシフトノブに置いていた左手を上げ、無性に浮かれた気持ちで大きく振った。

夢子の微かな残り香に身を任せ、空になった助手席を見つめている。 彼女は一体、オレをどれだけ惑わせれば気が済むのだろう────

不意にハザードランプの点滅音を大きく感じ、坂本は小さく頭を振って溜息を吐いた。
スイッチを指先で軽く押した後、両手でステアリングをしっかりと握り直す。
それが覚悟の意味を持つことに、彼自身も気付いていない。
雨に濡れた道路を、赤色のカプチーノが駆け抜けていく。タイヤ痕は間も無く洗い流され、そこにはただ雨が降り続いていた。



[サイドシートへようこそ]END.
request.横溝環様(48615HIT)
title.navy&ivory
theme.夢小説家に100+aのお題 no.012[二人乗り]
up date.2008/08/06