クーペ


『お伝えしていますように、台風×号は強い勢力のまま北上を続けています』
昨夜から、どこの放送局も台風情報がメインだ。ニュースによれば、今日の昼頃に埼玉県北西部を直撃するらしい。渉お気に入りの女子アナが喋っているテレビを消すと、延彦はネクタイを締め直した。
玄関で靴を履き、ドアを開けた途端。開く筈のドアは〈何か〉にぶつかってすぐ止まった。何か、は「ぐっ」とかいうくぐもった音を立てている。途惑いながら恐る恐る覗き込むと、頭を押さえた〈人〉がしゃがみ込んで居るのが見えた。

一体誰だ。何故ここに居る。何をしようと──

「……夢子?」
しばし考え込んだ後、ぽつりと名前を口にした。こんなところに居る筈がない〈彼女〉の名前。
「おはよ、延彦」
やっと顔を上げたその人は、間違いなく──夢子本人である。
呆気に取られた。今日は金曜、もちろん平日。本来なら大学に行く準備をしている時間だろう。
「……何、してるんだ。学校は?」
「台風で休校、のはず」
「はずって……」
「あたしンとこそろそろ危なそうだから、避難しに来た」
「明け方に高速乗ってうちまで避難?」
「通行止めになってたら諦めたけど」
大丈夫だったよ、と夢子がビニール袋を掲げる。
「非常食、って言うか食料持参。上がっていい?」
「いいけど、俺これから仕事……」
「うん、いってらっしゃい。あたし留守番してるね」
あっけらかんと夢子が笑った。
「……何もないぞ」
「別に漁ったりしないって。ベッド貸してくれたら嬉しいけど」
「これから寝るのか」
「課題で完徹だったから若干厳しいれす」
ふあ、と大きなあくびをひとつ。
「てなわけで、お願いします」
夢子が涙で潤んだ目で見上げてくる──だけどそれが盛大なあくびのせいか、いまいちキュンとしない。果たして本当に休校なのか、見られてはいけないような物はなかったか──延彦は考えることを放棄した。
「お好きにどうぞ」
「やったーありがと。風強いから気ぃつけてねー」
夢子は尻尾を振るように玄関へ滑り込み、それと同時に延彦が玄関を出る。
「早く帰ってきてね、延彦」
「ああ、努力する」
満足気に笑った夢子が、ひらひらと手を振って静かにドアを閉める。玄関に施錠しようとして持っていた鍵に何気なく目を遣った。

もし──夢子に合鍵を渡したら、受け取ってくれるだろうか。

少し迷って銀色の鍵をシリンダーへ差し込む。ガチャンと音が鳴り、延彦は施錠を確認して駐車場へ向かった。銀色のアルテッツァの隣、夢子の愛車FTOが雨粒を滴らせている。夜中に走ったら羽虫に大人気のボディカラー・ダンデライオンイエローは、薄暗い駐車場でもやたら目立つ。ダンデライオン──つまりタンポポの黄色。凄く派手、という表現に尽きる。外観は良く言えば個性的──悪く言えばアクが強く、好き嫌いの分かれそうなデザインである。車体の曲線を滑り落ちる雨粒を眺めていたが、ふと腕時計を見遣った延彦は慌てて愛車へ乗り込んだ。



社員食堂の窓ガラスに横殴りの雨が叩き付けられている。大荒れの空を横目に昼食をとろうとした時、トレイを手にした同僚が声を掛けてきた。
「秋山、飲み行かねぇ?」
「悪い。今日はパス」
「何だ、コレか?」
延彦の隣に腰を下ろした後、右手の小指を立てた。
「……まあ、そんなとこ」
「女子大生だっけ?」
「ああ」
夢子が部屋に居ることを思い出し、携帯を取り出した。だが、もし寝ているとしたら──絶対に──電話など、かけてはいけない。通話が繋がったと同時にあらゆる暴言をまくし立て、こちらが精神的にダメージを負うに違いないからである。触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らず──延彦は小さな溜息を零して携帯をしまった。
「何だ、いいのか?」
「ん、完徹って言ってたし」
「若いな。オレも昔、週に4回は徹夜で麻雀してたなァ」
「今だと考えただけでゾッとするよな」
「年取ったってことだ。ま、今日は定時で上がれそうだし、早く愛しの仔猫ちゃんに会いに行ってやれよ」
「お前の例え、変だぞ」
延彦は苦笑してプラスチックの湯呑み茶碗を手に取る。

『台風×号は勢力を弱めながら日本海側に抜け、今夜遅くに温帯低気圧へ変わる見込みです』

天井から吊り下げられているテレビからは、正午のニュース。男性アナウンサーが台風一過を告げ、食堂全体に安堵したような雰囲気が流れる。延彦も少しほっとして、渋めの緑茶を啜った。
ニュースな出来事があると、まず最初に夢子に教えたくなる。夢子も──ニュースでも何でも構わないけれど──俺に教えてくれるといいのに。湯呑み茶碗をテーブルに置くと、延彦は大きな溜息を吐いた。



午後の仕事は思っていたよりも捗った。この調子なら残業はなさそうだ。
終業時刻まであと5分。カウントダウンを刻みながら、さり気無くデスクを片付け始める。そして時計の長針が12を指した瞬間、鞄を手に立ち上がり早口で退社を告げた。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
フロアを抜けると自然と速くなる歩調──会いたい、夢子に。延彦は鞄から愛車の鍵を取り出し、エレベーターホールへ向かった。


弾んだ息を整えてブラックオークの玄関前に立つ。ドアレバーに触れてみるとひんやり冷たく、鍵は閉まったままだった。部屋にはスペアキーを一本置いているが、夢子は場所を知らない筈だ。とすると、外出はしていないことになる。夢子はずっと留守番をしていたのだろうか。玄関を開けた途端、にんにくとトマトの香りが漂ってきた。夕食の支度をしているとは予想外だ。
「ただいま」
後ろ手で施錠すると、キッチンに居るであろう夢子へ声を掛ける。
「おっかえり〜ぃ」
ダイニングキッチンから夢子がパタパタと歩いてきた。先週置いていったスウェットパンツと、延彦のTシャツに着替えている。ほんのり染まった頬と目元に疑問を感じ、顔を近付けてみると微かな〈匂い〉を感じた。
「……夢子、ビール飲んだ?」
「酔ってないれすよー」
何が可笑しいのか、けらけらと笑っている。夢子の酒癖が頭を過ぎ、暗澹たる気持ちになりかけ──振り切るように右手でネクタイを緩めると、夢子がそれを制した。
「待って!」
切羽詰まったような声に思わず手が止まる。
「──どうした?」
「萌えた!」
「……は?」
「だから、スーツとネクタイで、3割増しなの!30パーもすごいの!」
ああ、意味が解らない。誰か通訳してくれ頼む。
「しかもそれを崩して!これぞ王道スーツ萌えッ!」
明らかに鼻息が荒くなっている。酒の力はこれ程のものだったのか。頭痛の予感に気付かないフリをして夢子の横をすり抜けた瞬間、鈍い衝撃が腰を襲った。何が起きたのか理解出来ないまま、廊下に尻餅をついていた。犯人を見上げると、満面の笑みで──携帯電話を手にしている。意図を問おうと口を開いた瞬間、軽快なシャッター音。起き上がろうとした延彦を押し倒し、夢子が悠々とマウントポジションを取った。
「いいアングル〜」
携帯越しに注がれる夢子の熱っぽい視線が有難くないこの状況。体格の違いで劣勢を覆す自信はあるが、夢子の気が済むまでやらせておこうと抵抗を諦めた。
しばらく冷たい廊下に寝そべったまま、上から鳴り響くシャッター音をやり過ごしていた。ふと、肩に置かれた夢子の左手に触れる。そこは火照るように熱を帯びていた。
「熱いな。大丈夫か、夢子
「んー、暑ー」
夢子がうわ言のように呟き携帯を手放した。さして高い位置から落ちたわけでもないそれは、ゴトリと廊下に転がる。精密機器とはいえ、さすがに壊れることはないだろう。だが傷付いたりしていないだろうか。携帯の行方を見守っていた延彦が夢子へ視線を戻すと、両腕を交差させTシャツの裾をたくし上げていた。
「な、にして──夢子っ!」
慌てて裾を引っ張り元に戻した。薄っすら浮いた肋骨や、黄色と橙色の中間色の下着は見なかったことにする。
「だーって暑いんだもん」
唇を尖らせていた夢子が、何かを思い出したように目を瞬かせた。
「冷蔵庫に鶏肉あったから、アレ作ったよ。カチャトーラっぽいの」
カチャトーラは『猟師風煮込み料理』であるから、それっぽいということは猟師風っぽいということで──
「すぐ食べる?」
夢子の言葉が思考を遮る。
「……いや、まだいい」
ようやく上半身を起こした延彦が、突然近付いた夢子の唇を味見するように舐めた。
「結構飲んだな」
「半分も空けてないよー」
ふにゃふにゃと表情を崩した夢子が身体を密着させ、熱が伝わる。
「寂しかった?」
延彦の問い掛けに夢子が小さく頷き、髪が頬をくすぐった。
「延彦がね、早く帰ってこないかなーってね、ずっと思ってたよ」
素直な夢子がやけに可笑しくて微笑う。いつも、このくらい素直で居てくれると嬉しいんだけど。
「明日になったら覚えてないんだもんな」
「う?なにが?」
「何でもない」
薄っすら苦笑して、肩に預けられた夢子の頭を撫でた。
「そうだ。夢子、お土産があります」
「なになにー」
上半身を少し離した夢子から、期待が込められた視線が注がれる。放られていた鞄から取り出したもの──帰りに管理会社へ立ち寄って受け取った合鍵──を夢子へ差し出す。
「受け取ってくれるか」
夢子は頬を上気させて何度も頷き、ぎゅっと鍵を握り締める。
「ありがと。うれしい」
俯いた夢子の頬を伝った水滴に驚いて問うた。
「……夢子、泣いて──」
「な、泣いてない」
目元と鼻をぐしぐしこすりながら、夢子が早口で否定する。
「嘘。見せて」
「うっせ、さわンなメガネ!」
バタバタと腕を振り回す夢子をなだめるように抱き締めると、一瞬で大人しくなった。
まったく──夢子はどれだけ俺を振り回したら気が済むのだろう。それを楽しんでいる自分にも呆れてしまう。『猟師風っぽい鶏肉の煮込み料理』が食べられるのは、もう少し後になりそうだ。



ブラインドから射し込む光で延彦が目を覚ます。
すぐ傍に居る夢子の髪を撫でながら安心しきった寝顔を眺めていたら、ふと瞼が開いた。
幾度か瞬きをした夢子がうつ伏せのままヘッドボードへ腕を伸ばし、携帯のサブディスプレイで時刻を確かめる。携帯を先程在った場所へ戻すと、その隣に放ってある鍵を手に取った。
「延彦。鍵、なんでココにあるの?失くすよ」
「やっぱり覚えてないんだな。それ昨日夢子にあげたのに」
「…………なんで?」
「なんで、って……いつでも来てくれて構わないと言うか、むしろ来て欲しいと言うか、」
言葉の終わりを探していた延彦が、少し照れたように夢子から視線を逸らし背中を向けた。

夢子は掌に乗せた銀色の鍵をしげしげと眺め、延彦の背中に問うた。
「あたし、いつでも来ていいの?」
「いつでも来ていいよ」
ヘッドボードに微かな金属音が響き、延彦は背中に熱を感じた。硬さから察すると、押し付けられたのはどうやら額のようだ。
「ありがと、延彦」
小さいけれど穏やかな夢子の声が、微かな振動を起こす。

今日の昼頃夢子を迎えに行くつもりだったが、こうして傍に居る。丸一日ベッドで過ごすのも悪くない──そう思った。擦り寄せられた身体を抱き締めようと寝返りを打つと、夢子が居ない。延彦の途惑った視線の先、ベッドサイドに立ち腰に手を当て、左右に捻り──ストレッチをしている夢子の背中。ゴキゴキと硬い音の後、背筋をうんと伸ばして細く息を吐いた。
夢子は視線に気付いたのか、振り向いて微笑う。
「お風呂入ろ」
「出掛けるのか、夢子
「うん。和美ちゃんとデート」
「……聞いてないぞ」
「あれ?昨日決まったの言ってなかったっけ」
「聞いてない。……渉は」
「あー、多分一緒だと思う」
「俺も行く」
「どしたの?顔怖いよ延彦」
「別に」
軽く咳払いをしてベッドから手招きをすると、夢子は素直に戻ってきた。いそいそと腕の中に収まってきた夢子へ囁く。
「俺はもう少し、こうして居たいんだけど」
「少しでいいの?」
悪戯っぽい笑みを浮かべた夢子が、延彦の喉仏から鎖骨へ舌を這わせる。熱い舌の柔らかさに、背筋が粟立つような感覚に囚われた。

どうやら俺は、夢子に振り回されることを望んでいるようだ。こういう関係もきっと悪くない──延彦は自分に言い聞かせるように呟いて夢子を抱き締めた。



[クーペ]END.
title.スネオヘアー
theme.夢小説家に100+aのお題 no.083[ニュース]
up date.2007/09/13