いろはもみじ
群馬県沼田市。女性数人の弾んだ声が響く椎坂峠展望台に、春の訪れを感じさせる穏やかな風が吹いた。
「夢子ー、写真撮ろーよ。カメラ持ってるんでしょ?」
「ん、いいよ。そこ並んでー」
「でもせっかくだし、みんなで写りたいよね」
「誰かに撮ってもらえないかなぁ」
高校の〈卒業旅行〉というほど大それたものではない、普段の散歩みたいなドライブの途中。
推薦で県内の大学を決めた夢子は、既に免許と車を持っている。しっかりと初心者マークを貼った〈愛車〉へちらりと視線を遣った。
入学した頃からの仲良し4人組は、それぞれ異なる進路を選んだ。都内の専門学校へ進学、地元企業へ就職、幼馴染と結婚。
こうしてみんなで集まるのは、今日が最後になるかもしれない。そう思うと、やっぱり寂しい。
「ちょっと頼んでくる」
デジカメを手にした夢子が目を向けたのは、やや離れた場所に居る長身の男性達。数人で車の脇に立ち、何事か話し込んでいる。
今この場所を見渡す限り、夢子達の他には彼らしか居ないようだ。
「えー……なんか……結構、怖くない?」
「大丈夫だって。あの白い車、たぶんエボ4だし。あっちは5かな」
「えぼ?なにそれ、車の名前?」
「ん、まぁ仲間みたいなもんだよ。ランエボ乗りに悪い人はいないって」
友人達は根拠の無い自信を持つ夢子を心配し顔を見合わせるが、当の本人は躊躇うことなく彼らの元へ近付いていく。
「あのっ、すみません」
「──あ?」
「写真、撮ってもらってもいいですか?」
彼は差し出された小さなカメラを手に取ると、迷うことなく〈彼女〉を写すためにシャッターを押した。
「……えと……私じゃなくて、みんなの写真なんですけど……」
友人達を指差す彼女の少し困ったような笑顔に、彼が息を飲む。
「あ……あぁ、わりィ」
「何やってんだよ清次ー」
「すみません、お願いします」
にこりと笑った夢子は身体を翻すように友人達の元へ戻り「この辺から撮ってもらえますか」と小さな手を挙げる。
清次が何枚かシャッターを切ると、彼女は小走りで駆け寄ってきて深々と頭を下げる。──たいしたことはしていないのに、大袈裟な。
「ありがとうございます、助かりました」
「いや。それより……あの赤い車、エボだよな。あんたの?」
「はい、そうです。そちらも、ランエボですよね」
「ああ。どっかチームには入ってんのか?」
「……チーム、って何ですか?」
聞き慣れない言葉に首を傾げ、夢子がそのまま言葉を返す。じっと彼を見つめると、どう答えようか悩んでいるようだ。
「清次、こんな女の子が走り屋なわけないだろ」
「うるせえな。……なあ、興味ないか?」
「少しだけ、ありますけど……私、全然初心者で……ホントに何も知らなくて……」
「今度いろは坂に来てみろよ。ランエボ乗ってる奴らが集まってんだ」
「いろは坂って、中禅寺湖の方の道路ですよね」
「ああ。歓迎するぜ」
柔らかな口調でそう言うと、清次は一枚の紙片を寄越した。走り書きの携帯番号、彼の名前。
「オレ、清次ってんだ。岩城清次。あんたは?」
「あ──はい、田中夢子です」
「夢子か。気が向いたら電話しろよ。じゃあな」
数台のランエボは派手な音を響かせて椎坂峠を後にした。国道120号を走れば、彼らの言う『いろは坂』にたどり着くのだろうか。
「ちょっと、あれホントに夢子のと同じ車?超うるさいんだけど〜」
「かなり怖くなかった?」
「そーそー、よく行ったよね、夢子ってば」
遠ざかる車のテールを見送り、遠巻きに眺めていた友人達が恐る恐る近付いていく。夢子は紙片とカメラを手に立ち尽くしていた。
「どしたの?夢子。ぼーっとして」
「……なんか、好き、に、なったかも……」
「うっそ、あんたジャニ系の可愛い年下がタイプなんでしょ?全然違うじゃん」
「ていうか、あの人らマジ怖かったよね!いかちィし!絶対ヤリ捨てられるって!」
「いや、それはさすがに言い過ぎでしょ……」
周りの声は夢子に届かなかった。これ、もしかして〈恋〉──?
数日後。夢子は自室のベッドに寝転がり、登録したメモリを眺めていた。画面に表示されているのは、すっかり暗記してしまった11桁の番号。
電話に出てくれたら、思い切って名前で呼んでみよう。あくまでさりげなく、なんでもないことみたいに。
身体を起こして何度も親指で躊躇い、決意と共に通話ボタンを押す。呼び出し音は妙に長く感じられた。
『もしもし』
「あ……あの、清次さんですか?私、椎坂峠で会った、田中ですけど……覚えてますか?」
恐る恐る、といった口調になってしまっただろうか。それでも、彼の名前を呼ぶことには成功した。
『もちろん覚えてるさ。来る気になったか、夢子』
「はい。よろしくお願いします」
『あ、敬語やめろよ。オレが苦手なんだ』
微かな苦笑が耳をくすぐる。この人、笑うんだ。至極当たり前のことなのに夢子には可笑しく感じられ、微笑が浮かぶ唇へ手を遣った。
呼び捨て・タメ口の約束を取り付けられ、たどたどしい会話が続く。
『今夜、時間あるならメシでも食おうぜ』
よし、やった!と空いている手を握り締める。時間と場所を決めて「それじゃ、後で」なんて平静を装い、通話を切った。
何を着ていこう。何を話そう。こんなに嬉しい悩み事って、あんまりない。
待ち合わせは午後8時。暴走族と走り屋の区別がつかないであろう親には『友達とごはん食べて遊んでくる』と適当に言っておいた。
大学が決まってからはわりと放任、されているように思う。
春も間近の3月とはいえ、山の方は冷えるだろう。バッグと厚手のパーカーを助手席に置き、夢子はそろそろとガレージを抜け出す。
『駐車場にいるから見つけてくれよ』
約束の時間にはまだ余裕がある。ファミレスの看板が見えたところで電話をかけると、彼はそれだけ言って通話を切った。
ランエボならすぐに見つけられるだろう。好きな人が乗っている車なら、尚更。
思った通り、彼の車はすぐ目に留まった。駐車場のいちばん奥に停められた白い車の傍ら、清次は煙草を吹かしているようだ。
夢子はスペースを一つ空け、慎重に駐車した。もっと早く、上手く駐車できるようにならないといけないな。
反省しながら愛車を降りた夢子は、清次の元へ駆け寄った。彼の足元には吸殻が数本散らばっている。
「すみませ……遅れて、ごめん」
「おう」
夢子はどちらかといえば背が低い方だが、彼は背が高い方だろう。向かい合って視線を合わせようとすると、夢子は彼を思い切り見上げるような格好になる。
清次は夢子を見下ろして「首痛めるなよ」と軽い苦笑を浮かべた。
「あの……けっこう、待った?」
「オレが早く着いただけだから気にすんな。メシ食おうぜ、腹へった」
足早に店内へ向かう彼の後ろについていく。その際、夢子のためにドアを開けておいてくれた。
レディーファーストとかはよく分からないけど、素直に嬉しいと夢子は思う。
「いらっしゃいませ、二名様ですね。お煙草は吸われますか?」
清次は後ろの夢子を振り返り「どうする?」と問うた。気を遣ってくれているのだろう。夢子は束の間逡巡して「どっちでも、大丈夫」と小さく答える。
「そっか。じゃ、喫煙席で」
「かしこまりました。喫煙席、二名様ご案内です」
「いらっしゃいませー」
店内は混んでいるようで賑わっている。ガラスで囲われた喫煙席は、薄っすら白く霞がかっているように見えた。
いつもは禁煙席派の夢子だが、彼が煙草を吸う姿は好きだった。
「なぁ、夢子は何でランエボ乗ってんだ?」
案内された席へ腰を下ろすなり煙草を取り出して清次が訊いた。夢子は広げたメニューから視線を上げ、彼の手元を見つめる。
「えーと……カッコイイから、かな」
「ハハ。わかりやすいな」
「清次……は、なんで?」
名前を呼び捨てにするだけで、心臓が口から飛び出しそうになる。メニューを置き、水の入ったグラスを掌で包んだ。
顔が火照っているように思えた。意識しないようにすればするほど落ち着かなくなる気がして、水を一口こくりと飲み込む。
「たしかにカッコイイよな。それに、キレイだろ」
「うん。何て言うか、無駄がなくて……戦うために生まれた車って感じがする」
「そうそう。わかってんじゃん夢子」
嬉しそうに煙草を吹かす彼に誉められたような気がしてくすぐったかった。
友達が言うように清次は背が高くて体が大きいから一見怖いかも知れないが、実際に話してみるとそんなことはなく、意外と人懐こい印象を受けた。
「いろは坂って、たしか一方通行なんだよね」
ドリンクバーから戻ってきた夢子がソファへ浅く腰掛ける。味見程度にグラスへ注いだドリンクに浮かぶ氷を、ストローで突きながら清次へ訊いた。
「ああ、上りと下りがそれぞれ一方通行。行ったことないか?」
「んー……自分で運転して行ったことはない、かなぁ」
「そういや夢子は免許取り立てか」
「今月やっと高校卒業したんだから。まだぜんぜん若葉マークです」
「免許取って初めて乗る車がランエボかよ。度胸あるな、お前。……ま、しばらくはノーマルのままがいいよな」
向い合せに座る窓際の席からは、駐車場に停めた二台の車が見える。
今日、スペースを一台分空けたその距離は──いつか、縮められるだろうか。できれば、彼のすぐ隣へ。
「あれ、やっぱり改造してるんだよね。チューニング、っていうんだっけ。どんなふうにやってるの?」
「そうだな……言葉で説明するのは難しいから、今度隣に乗れよ。その方が、自分の車との違いもわかるだろ」
突然の〈約束〉に頷く。清次にしてみれば取るに足らない些細な提案かも知れないが、夢子はとても嬉しかった。ストローをくわえながら自然と頬が緩む。
「夢子、何ニヤニヤしてんだ?」
「──べ、べつに、なんでもないけどっ」
指摘されて急に恥ずかしくなった夢子は、ほとんど空になったグラスを掴んで立ち上がる。鼓動と同じ速さで、指先が微かに震えた。
混み始めたファミレスの駐車場、二台の前に立った清次が「離れないでついて来いよな」と夢子へ投げ掛けた。
「ふつーに走ってくれるよね……?」
「初心者相手なんだ、当たり前だろ」
フロントガラスの隅に申し訳なさそうに貼られた初心者マークを指し、清次が苦笑を漏らす。
車に乗り込んだ清次を見遣り、夢子も愛車のシートへ身体を埋めると──間も無く〈彼〉の猛ったエンジン音が夢子へ届く。
何かを決意するように一度深呼吸をして、夢子もエンジンを始動させた。
「あれ『ドリフト』ってやつ?」
明智平駐車場へ着いた途端、愛車から飛び出した夢子が清次に駆け寄っていく。
「何だ、知ってんのか」
「ドリフトくらい知ってるよー!」
やり方とか原理とかはよくわかんないけど、と夢子が唇を尖らせる。
「練習すれば、夢子にもできるようになるぜ」
「ホント?やってみたい!教えてね」
「ああ」
ニコニコ笑う夢子とそれにつられて笑顔になる清次の元へ、エンペラーのメンバーがやって来た。
「清次が女連れなんて、珍しいこともあるもんだな」
「キレーに乗ってんだなあ。見た感じノーマルだけど、結構イジってんの?」
自分より数段背の高い男性達に囲まれた夢子は──はしゃいだことを反省しながら──おどおどと清次の背中へ身を隠す。
「あれ、隠れちゃった」
「アメあげるからコッチおいでー」
「何やってんだよお前ら。夢子ビビっちまったじゃねぇか」
しっしっと清次が追い払うも、彼らは夜更けの明智平には珍しい〈女性客〉に興味津々のようだ。覗き込み、しつこく声を掛けている。
「夢子ちゃんていうんだ。こんばんわ。学生?」
「おい清次、この子どこで拾ったんだ」
「バカ言うな。この前椎坂峠で会ったんだよ」
夢子はパーカーの袖を指先で弄りながら様子を伺っていたが、背後から突然聞こえた大きな音に首をすくめる。
「……なに、今なんか、爆発……?」
「ああ、京一だろ。もう近いぜ」
清次の言葉通り、すぐに黒いエボ3が姿を現した。
駐車場の中央に停められた車の運転席から降り立つ人は、清次と同じか──それ以上にガタイのいい男性。
彼はまるで異質なモノを見るような眼で夢子を一瞥した。射るような視線を逸らせずに立ち尽くしていた夢子は、泣きそうな顔で清次の腕を引く。
「ヤバイよあの人……絶対何人か沈めてるよぉ」
清次は吹き出し散々咳込んだ後、京一に声を掛ける。
「こいつ、夢子ってんだけど。ウチに入れてもいいよな」
「ほう。その赤いのがお前の車か」
質問は自分に向けられたものだと夢子は解っていたが、言葉が出てこなかった。辛うじて一度頷き、清次の背中から決意を込めて答えた。
「……まだ初心者ですけど、私の、車です」
「そうか。速くなりたいか」
「……はい」
「夢子といったな。俺は須藤京一。歓迎するぞ」
差し出された右手を恐る恐る握ると、力強く握り締められた。痛くはないけれど、〈捕らえられた〉ような感覚が身体を貫く。
「そんなところに隠れていないで出て来たらどうだ。取って食うつもりはない」
言葉を反芻している間に、夢子は京一の腕の中に居た。
夢子が自分の置かれた状況を理解し、金魚のように口をぱくぱくさせているうち、京一はメンバーに何やら指示を出してしまっていた。
それぞれが車に乗り、ホームコースを走り込む為に駆け出していく。その結果、夢子はいろは坂の〈皇帝〉と二人きり。
「あ……あの、須藤さん、」
「京一でいい。コーヒーと紅茶、どっちが好みだ、夢子」
「……コーヒーです……。って京一さん、あの、私──」
「清次に惚れてるのか」
寒いのに、顔だけがぐんぐん熱くなっていくのがわかる。これではいくら否定しても無駄だろう──観念した夢子は小さく頷いた。
「何で清次なんだ。夢子なら、もっといい男を捕まえられるだろう」
目の前に差し出されたのは温かいカフェオレの缶。夢子はぺこりと頭を下げて受け取る。
「えと、あの……私にも、よくわからないんですけど……」
どうして清次が好きなのか、という問いへの答えはまだ見つからない。夢子自身が自分の気持ちに途惑っているからだ。
「背が高いとか、こんな仕事してるとか、なんていうか……そういう、条件みたいなので好きになったわけじゃない、んだと思います」
自販機の隣にあるベンチに腰掛けた夢子は、ぽそぽそと呟いて手中の缶に視線を落とす。
「気付いたらもう、……好きに、なってました」
そう宣言した後で恥ずかしくなったのか、パーカーのフードをすっぽりと被ってしまった。
「あいつは鈍いから、待っているだけでは気付かれないぞ」
「……そう、なんですかねぇ……」
「あまり女に縁がない奴だからな」
「……はぁ……」
遠くから咆哮のようなスキール音が聞こえてくる。気温は随分下がってきたようだ。吐く息の白の濃度がそれを物語っている。
隣に座った京一の大きな手へ視線を遣った夢子が「京一さんて、モテそうですね」と呟いた。
「そう見えるか」
「はい。今なんとなくハーレムが浮かびました」
夢子の勝手な想像に苦笑を漏らした京一は「俺は惚れた女一筋だぞ」と言い切り、コーヒーをぐいと呷る。
「私だって、好きになったらその人一筋ですよ?」
温かい缶を握り締め、夢子はくすくすと笑う。可愛らしい笑顔が咲き、京一はひとつ息を吐いた。
「今すぐ夢子をさらって行くことも出来るが──」
「え……なんですか?」
「夢子に惚れたということさ」
夢子が被っているフードに京一の手が触れる。それを外し、少し乱れた髪を梳くと──夢子がようやく言葉の〈意味〉を理解したようだ。
思案顔からみるみるうちに頬が染まっていく。季節外れの紅葉に、京一が目を細めた。
「……や、あの、私が好きなのは、清次ですから……」
途惑いがちの口調、焦るように目が泳いでいる。再び俯いてしまった夢子を、心底面白そうに眺め京一は笑った。
「解ってるさ。恋路の邪魔をするつもりはない。残念だが諦めることにする」
夢子の頭を軽く撫でて京一が呟いた。どこまでが本当なのだろう。京一の真意は、先程会ったばかりの夢子にはさっぱり読めない。
「時間は大丈夫か」
京一の問い掛けに慌てて携帯を見ると、日付が変わろうとしている。家族に帰宅時間も行先も告げていないことを思い出した。
いくら〈春休み〉とはいえ、連絡もせずに遅くなっては心配するだろう。夢子は「そろそろ帰りますね」と携帯を握り締める。
「ああ」
「……でも……戻ってくるまで待ってたいな……」
「清次には俺から言っておく。いつでもここへ来ればいい」
「それじゃあ、私……また来てもいいんですか?」
「勿論。お前もメンバーなんだ」
ちょっと待ってろ、と愛車に向かった京一が、戻ってくるなり夢子に差し出したのはチーム名のステッカー。
「夢子一人で走るには心配だからな。こいつが魔除け代わりになる筈だ」
「ありがとうございます、京一さん」
「何かあったらすぐ連絡しろよ」
そう言って京一が差し出した携帯のディスプレイには、オーナー情報として11桁の番号が表示されていた。
夢子はそれを自分の携帯へ登録し、一度だけコールする。
「ステッカー、貼っていきます」
歪まないように、捩れないように。慎重に貼ったその場所は、リアガラスの左上部。
「清次と同じ場所か」
照れ笑いを浮かべて夢子が頷く。染まった頬に、改めて彼女の気持ちを知らされた。
名残惜し気に運転席から手を振る夢子へ、京一も苦笑しながら手を振り返す。
最後に「ありがとーございましたー!」と残し、夢子が乗る緋色の愛車は明智平を後にした。
「……なあ京一。夢子、もう帰ったのか?」
「ああ、ついさっきな。途中で見なかったか」
「会ってねぇ。横に乗っけてやろうと思ってたのによ……」
眉間にシワを寄せてぶつぶつと呟く清次を、京一が愉しげに見遣る。こいつ、本気で夢子に惚れてるな。
「ぼやぼやしてると俺が貰うぞ」
「──なっ、何言ってんだよ京一」
悪びれもせず「冗談だ」と笑った京一は、清次に背を向け愛車へ乗り込む。嘘とも本気とも取れる口振りだと清次には感じられた。
明智平駐車場の真ん中で、清次は頭を抱えて大きな溜息を吐いた。
夢子から『今日はありがとう』というタイトルの(妙に長い)メールが携帯に届いたのは、午前2時半を回った頃。
ベンチで煙草を吹かしていた清次は、それを目にして表情を緩める。
『またいろは坂に行くね!京一さんがいいって言ってくれたんだ♪』
ちくり、心に小さな棘が刺さった。夢子が綴る文章から京一の名前が出るたび、醜く淀んだ気持ちが澱となり──身体の奥底へ溜まっていくようだ。
『おやすみなさい』で締められたメールを読み終えた清次は、何かを吹っ切るように勢い良く携帯を閉じる。澄んだ夜空に高い音が響いた。
ガイダンス、履修登録、サークル勧誘などなど。入学式から慌ただしい日々が続いていた。いろは坂へも頻繁には通えず、〈彼〉にもあまり会えていない。
講義が始まるまでに、一度行っておきたい。そう思いながら、学生用駐車場で待たせている愛車のロックを解除する。
ドアを開けようとしたところへ「ちょっといい?」と声を掛けられた。振り返ると男性が一人、紙の束を手に立っている。
「急にごめんね。うち自動車部なんだけど、興味ないかな。エボ乗りも居るし、初心者さん大歓迎だよ」
「自動車部……ですか」
「うん、そう。サーキット走ったり競技会出たり、他校と交流ってのもあるけど、自分で車の整備とかできるようになりたいと思わない?部室がある建物は新設でキレイだし、優秀な先輩達がいるから各科目の試験対策もバッチリ。きっときみの役に立てると思う」
爽やかな笑顔と早口でグイグイ〈入部〉を迫る男性に困惑しながら「すみません。少し考えさせてください」と断りを入れる。
「もちろん!はいこれ、チラシ。時間あったら部室にも遊びに来てね。平日ならいつも誰か居るからさ。いい返事、期待してるよ」
紙の束から引き抜いた一枚のチラシを夢子へ押し付け、彼は足早に去って行った。次のターゲットを探すのだろうか。
照明を頼りに部員や活動紹介、走行会の日程などを見ると、主に県内のサーキットで〈活動〉しているとのこと。
先程声を掛けてきた男性は、副部長こと『白煙番長』。どうやら同じ学部の先輩らしい。キリッとした顔写真と目が合ったように思う。
意味はよくわからないけれど、なんとなく楽しそうだな、と息を吐いた。
「おう。ひさしぶりだな、夢子」
明智平駐車場で、夢子と愛車を迎えたのは清次だった。
「ひさしぶりー。みんな元気?」
「あいつら見りゃわかんだろ」
清次が顎で示した先、数人がこちらへ手を振っている。それを目にした夢子は笑んで、大きく手を振り返した。
ほとんど空になっていた缶コーヒーを飲み干した清次は、夢子が持っている、二つに折り畳まれた紙に目を留める。
「なんだ、それ。チラシか?」
「うん。大学の駐車場で勧誘されたの。自動車部だって」
チラシを広げて清次に手渡した。傍を通り掛かった京一も、一緒になって覗き込んでいる。
「オレ知ってるぜ。結構有名だよな、ここ」
「ああ。何度か走行会で見掛けたし、雑誌にも活動報告が載っているだろう」
「どうするんだ、夢子。入部するのか?一人で大丈夫かよ」
「迷ってる……かな。初心者歓迎、とは言ってたけど……私レベルで参加してもいいものかどうか……」
「最初は皆初心者だ。視野を広げるには丁度いいんじゃないのか。経験を積めるだろう」
「夢子はまだサーキット走ったことないだろ。楽しいぜ」
「うーん……大丈夫かなあ……」
「俺達では教えられないこともあるだろうしな。人脈を作ったり、学生生活を楽しむことも必要だ」
メンバーに声を掛けられた京一は、二人へ背を向けてその場を去った。京一の背中を見送りながら、清次が呟く。
「ちゃんと記録に残るようなところで、お前の力を発揮してほしいと思うぜ。……まあ、ここでムチャしてるオレが言うのもなんだけどな」
夢子と視線を合わせると、清次はチラシを突き付け「たまにはこっちにも顔出せよ」と笑った。
「……あったりまえだよー!」
チラシを受け取りながら笑い返したけれど。
声が震えそうになるなんて、変だな。嬉しくて泣きそうになるのも、ほんと、変だな。今日の私、なんか変。
「あー、喉乾いちゃった。私もコーヒー飲もうかな」
自販機へ視線を向けながら目元を拭った夢子は平静を装って振り返り、清次が持て余している空缶を指差した。
「それ、カラでしょ。捨ててくるからちょーだい」
「悪いな、夢子」
「いいってことよ。ついでついで」
空缶を手に駆け出した夢子は「あぶなかった」と呟いた。もう少し一緒に居たら、たぶん涙出ちゃってた。
自販機の横に備え付けられているダストボックスへ空缶を放り込もうとして、一瞬、手が止まる。
これ、私が口つけたら間接キスかな。……いやいや、それはさすがに、超えてはいけない一線だろう。さすがに。でもバレなきゃ、
「何を考えている、夢子」
頭上から降ってきた声に驚き、手から缶が離れていく。あっと思う間も無く、カランと高く軽やかな音。ゆっくり振り返ると、そこには。
「……きょーいちさん……」
「そう睨むな。解りきったことを訊いた俺が悪かった」
硬貨が擦れ合う音、電子音、さほど重くない落下音。やがて眼前に差し出されたものは、今しがた夢子が放ったものと同じ缶コーヒー。
これは何か、と問いたげに自分を見上げる夢子へ、溜息と共に京一が答えた。
「詫び、といったところだな」
「なんか、楽しんでませんか?」
「何の事だ」
「……いえ、なんでもないです。いただきます」
よく冷えた缶を受け取った夢子は、ぺこりと頭を下げる。初めて会ったときも、京一さんに缶コーヒーをおごってもらったっけ。
「今度はサーキットでも会えるな」
「あ……京一さんも、走りに行くんですね」
「まあな。楽しみにしているぞ」
返答を待つでもなく、京一はそこから離れていく。夢子のことなど忘れてしまったかのように、こちらを振り向きもしない。
ふしぎな人だ、と息を吐いた夢子は缶のプルタブを起こす。清次と同じコーヒーを一口飲んで「苦っ」と顔をしかめた。
二人に背中を押されるように、夢子は自動車部へ入部を決めた。
チラシの案内図を頼りに部室を訪れると、数人の男性がなにやらカタログらしきものを広げて議論を交わしている最中のようだ。
入部したいのですが、と夢子が告げると、その場に居た全員が立ち上がり、盛大な拍手が沸き起こった。
どうしていいのかわからず固まっていると、一人の男性が近付いてきてしっかりと夢子の手を握る。先日声を掛けてきた副部長だ。
「ありがとう!大歓迎だよ!」
どうやら女性の入部希望者は珍しいらしい。「ついにうちの部にも女子が」「これで華が」と部室内がざわついている。
副部長は夢子へ「やっぱりオレの目は正しかった。待ってたよ」と『入部届』用紙を差し出した。
活動を続けるうちに女性部員も増えるだろうと思っていたが……結局、夏休みになっても夢子一人のままだ。
先輩達は「オレらの勧誘が足りなかったせいで、田中に寂しい思いをさせてしまう!」なんて嘆いているけれど。
学内には男女問わず友達が居るし、寂しいと感じたことはなかった。
それに、チーム──『エンペラー』内での〈紅一点〉に慣れてきたせいか、男性陣の中に女性が自分一人でも気にならない。
講義の空き時間を潰す場所の選択肢が増えたこと(部室の居心地もいいし)、試験対策を伝授してくれる先輩が居ることはありがたい。
自分なりに活動を続けるうち、他校の女子部員と仲良くなれたことも大きな収穫だった。
世界が広がる、なんて言ったらオーバーかもしれないけど。自分としては、入部してよかった、挑戦してよかった、と思う。
京一が言うように、チームのメンバー達とサーキットで顔を合わせることもあった。
普段接するときとは違い、みんな怖いくらい真剣。でも、ここではそれが当たり前なんだ。
怪我や事故は言うまでもなく、〈死〉だって確率はゼロじゃない。〈走る〉ことを改めて認識させられ、心身が引き締まる。
それにしても夏って、いつもこんなに早く去ってしまうものだっただろうか。ここ数日は、秋を感じさせる風が吹くようになった。
いろは坂へ向かう途中、休憩がてら立ち寄ったコンビニの駐車場。夢子は助手席に放っていたカーディガンを羽織る。
去年の夏といえば、塾でも家でもずっと受験勉強してた。たぶん、人生でいちばん勉強した夏だったと思う。
今は、講義の勉強はもちろん、自動車関連の勉強をして──構造や整備のことも、少しずつだけど理解できている、はず。
好きなことを学ぶって、楽しいんだな。もちろん、楽しいだけではないけど。好きだから、これからもきっと続けられる。
うんと身体を伸ばした夢子は運転席に腰を落とした。だいぶ暗くなってきたな、と呟きながらサングラスを外し、ケースへしまう。
明智平駐車場に入ると、清次の姿が目に付いた。思わず右手を振ると、こちらへ早足で近付いてくる。
まるで、私が来るのを待ってくれていたみたい。……なんて、自惚れがすぎるかな。
運転席から降りた夢子がロックを掛けると同時、清次は「ちょっと付き合え」と愛車を指した。
一度頷いた夢子は、歩き出した清次の後ろをついていく。
走り出したエボ4の助手席、夢子は俯き加減で黙り込んでいる。
どこへ行くのか、何をするのか、夢子は何も訊いてこない。身体ひとつで助手席に居ることを、不安には思わないのだろうか。
運転席の清次がシートベルトを外し、目的地に到着したのだと分かった。夢子もベルトを外し、きょろきょろと周囲を見渡す。
ここは、夢子が清次と初めて会った場所──椎坂峠。
駐車場には数台の車が停めてあるが、人影は無いようだ。時折、国道を通る車やバイクのライトが光る。
しばらくして、清次が躊躇いがちに口を開いた。
「お前に話したいことがある」
オレの気持ちなんて、夢子はとっくに気付いているかもしれない。だけど面と向かって、自分の言葉で伝えたいことがある。
ここに来るまで、何と言おうかずっと考えていた。考えることなんて、もともと得意な方じゃない。だから、小細工はしないと決めた。
「好きだ、夢子」
途端、彼女の表情が強張ったように感じられた。拒絶を意味しているとしたら、これ以上は。──だけど、一旦溢れた想いは止められなかった。
「オレは京一と比べたら頭悪いし、女に好かれる自信もねえ。こういうことにも慣れてないしな。…………それでも、夢子が好きなんだ」
二人きりの車内。耳が痛くなるほど続いた沈黙に耐えられず、先に根を上げたのは清次だった。ダメならダメで、こればっかりはしかたないだろ。
「…………おい、夢子。オレが言ったこと、聞こえてんだろ。黙ってないでなんか言え」
「えーと…………なんで?」
「は?なんで、って……どういう意味だよ……」
「なんで清次は、私のこと……その……好きって、言ってくれるの?」
「好きなやつに好きって言うことの、何が悪いんだ」
「あ……えっと、悪いとかそういうんじゃなくて、むしろその……逆、というか……」
きっと、ここで初めて会ったあのときからずっと、変わらない──いや、今はそれ以上に強い気持ちで。
逡巡するように視線を彷徨わせた夢子は、ややあって、少し震える声で「あのね」と切り出した。
「私、ね。清次と……はじめて、会ったときから、」
ぷつりと言葉が途切れ、芳しく匂い立つように夢子の頬が色付いていく。紅葉の時季にはまだ早いはずだ。
枝から舞い落ち、空中で踊る紅葉を掴まえるような、少しばかりの遠慮と温度を乗せた指先で。清次は夢子の頬にそっと触れる。
「それで終わりか?言えよ、夢子」
彼女は小さく首を振った。ぎゅっと目をつぶり、真っ直ぐ唇を結んでいる。強い意志が溢れそうになるのを辛うじて抑えるように。
「言わないなら……勝手に、想像するぞ」
熱い頬に触れていた清次の指先は肌を滑るように降下し、唇の端を掠めて顎の辺りで停止する。
そのまま、夢子の顔を上向かせると解る。伏せられた睫毛も、結ばれた唇も、よくよく見れば僅かに震えていることが。
清次の額に汗が滲んだ。尋常じゃない速さの心拍数に自分で驚きながら、半ば祈るような思いで唇を寄せる。
もし避けられたら。清次の心配は杞憂に終わった。彼女の頬に唇で軽く触れた後、夢ではないことを確認するように、もう一度。
「…………やだ、もう。私、顔あっつい」
ぽそぽそと呟き、顔を覆い隠そうとする両手を掴まえた。彼女の両手首は清次の片手に容易く収まっている。
身動きを忘れたように硬直する夢子は潤んだ眼も、染まる頬も、熟れた唇も隠すことが出来ない。
狼狽えるように目を泳がせ「み……見ないでよ」と、か細い抗議を口にした。
「隠すな。全部見せろ」
拘束を解くと、不安を揺らがせた瞳でじっと見上げてくる。
自由になったその手でオレを殴っても、引っぱたいてもいい。そうでなきゃ、調子に乗っちまう。
夢子は胸元で両手を握り締め、ゆっくり唇を開いた。
「清次が好き」
やっと言えた。ずっと、言いたいと思っていた。電話でもメールでもなくて。会って、直接、伝えたかった。
きっと今じゃなかったら言えなかったんだ。不意に、鼻の奥がツンと痛む。想いが通じて嬉しいはずなのに、どうして涙が出るんだろう。
「泣くな、夢子」
清次の指先が優しく目元を拭う。頷いた夢子の頬へ、涙が一筋零れて伝っていく。
これからふたり、一緒に居よう。花々の春も、濃く深い緑の夏も、山が燃えるような紅葉の秋も、真白の冬も。
彼女の頬の色は紅葉。終わりかけた夏の夜、ひっそりと咲く。想い人に見守られるように色付いて。
涙で濡れた指先で、再び彼女の頬へ触れてみればふんわりと柔らかい。彼の気持ちを昂らせるには充分すぎる熱を秘めている。
指先から脳まで瞬時に痺れるような甘い痛みは、心まで強く締め付けて離さない。
もちろん──繋いだ手も、絡めた指先も。離すつもりなんてはじめからないけれど。
次に彼が目指すところは、朱が差した夢子の唇。日光が誇る紅葉にも負けない、美しさに溢れている。
そんなこと、本人はきっと無自覚で居るのだろう。誘うような色の合間で溺れるように、清次は夢子へくちづけた。
[いろはもみじ]END.
title.一青窈
up date.2004/12/22,2005/12/02 (rewrite.2013/03/20)