ギブス (page.3/4)


「雨って、降り始めがいちばん怖いんだぜ」
いつか賢太が言っていた。
アスファルトに染み込んだ埃や油が浮き上がり、何の前触れもなくあっさりと滑ってしまう。
路面が完全に濡れている方がかえって安全──


「って涼介さんが言ってたの?」
「……そうだよ」
指摘された賢太がむくれた。まったくもう、可愛いんだから。拗ねてしまった賢太の頭を撫でてあげる。
「いいこいいこ」
「何だよ夢子。子供扱いすんな」
「あたしの方が誕生日早いもん」
「……ちぇ」




あたしはその瞬間、ぽかんと口を開けて突っ立っていた。降りしきる雨なんか全然気にならなかった。
最終コーナーで啓介さんのFDがアウトからR32に並んで。スライドしながら歩道に乗り上げて、R32の前を駆けて行った。
ほんの何秒かの出来事だったのに、それは強烈なインパクトを持ってあたしを鷲掴んだ。




「啓介さぁーん!ブラボーっ!」
賢太の雄叫びで夢子はハッと我に返る。

「さわぐなケンタ、うざってーから」
苦笑した啓介は夢子にVサインをしてみせた。
「どうだ夢子。ホレ直したろ?」
「……レポート、あたしがやるんですか?」
ぷくりと頬を膨らませた夢子の頭を撫でて啓介が笑う。
「あー、まぁどっちでもいーや」


「いやーしかし良かったっスね。夢子ちゃんの貞操が守られて」
「?てーそーって何だよ」
「啓介さんが負けたら、夢子ちゃんナイトキッズのEGに食われるトコだったんスよ」
「はァ!? 夢子、何でそーいうこと先に言わねぇんだよ!」
「だって啓介さんは負けないもん。……って、信じてるからいいんです」
「──ったく、ビビらせんじゃねぇよ」
啓介は大きな溜息を吐いて頭をわしわしと掻き回し、夢子を抱き締めた。雨で湿ったパーカー越しに心臓の音が響く。
「ダウンヒル、どうするんですか?」
啓介のパーカーに遮られてくぐもった声になる。


「そうだなぁ。……アニキ、どうする?」
夢子を抱き締めたまま、啓介は涼介を見遣った。
「あぁ。今話してたところだが……ダウンヒルのタイムトライアルは中止だ」
空を見上げて涼介が溜息を吐く。
「この路面じゃどうしようもないからな」
「でも、雨なのにギャラリーの奴ら帰んないぜ?下りが始まるの待ってんだろ」
「うーん……それはそうだろうけどなぁ」
史浩の苦い口調が、バトルを渋っている。


「だったら……」
賢太の声に振り向いた。
「ギャラリーサービスに見せてやりましょうよ。雨のダウンヒル」


何かを決意したかのように涼介を見つめている。


「オレにやらしてくださいよ。オレ、雨はべつに苦手じゃないし……」
「ちょーしこくなケンタ」
啓介が諌め、夢子の髪を梳いた。
「何言ってんだお前。第一、走るのはいいけど誰とバトルする気なんだよ」
「秋名のハチロクが来てるって……言ってましたよね。やらせてください!オレとハチロクのレインバトル!」


涼介も啓介も史浩も、そして夢子も、呆気に取られたように賢太を見つめた。真っ先に否定したのは啓介だった。


「ふ……ッざけんなてめー!お前なんかにそんなおいしい役まわすかよ。あいつとの決着はオレがつけるんだよ!」
「啓介さんがわざわざ出るほどの相手じゃないってことですよ。相手はたかがハチロクじゃないですか。ここはあいつの地元じゃないし……」


こんなに真剣な賢太の表情は、夢子ですら見たことがなかった。


「絶対にやらせてください!お願いします!」
「ダメに決まってんだろ。ハナシになんねー。なぁアニキ」
「そうだな……。ケンタにやらせるのも面白いかも知れないな」
「え……いいんですかァ!? やったぁ!」
「ジョーダンだろアニキ!オレはおもしろくねぇ!」
「いいも何も……俺が決めることじゃないからな。相手が何て言うか──だろう」


涼介は微笑って夢子を手招いた。


「とりあえず中里と話してみないとな。一緒に行くか、夢子
「あ、はいっ」
夢子は啓介の腕をすり抜け、涼介の後をついていく。


2人の姿を捉えた慎吾は舌を打ち視線を逸らした。

「あの、」
涼介が毅と話し込んでいる最中、夢子はおずおずと慎吾に声を掛ける。
「……ンだよ」
「また、妙義に遊びに来てもいいですか?」
「別に……好きにすりゃいいだろ」
「ありがとうございます」
夢子はぺこりと頭を下げる。濡れた髪が肌に張り付いて、ひどく艶かしい印象を慎吾は受けた。


「……名前。夢子、だっけ」
「はい。田中夢子です」
夢子。……お前、FDが勝つって思ってたから受けたんだろ。オレとの賭け」
「もちろんです。啓介さんは負けません」
そして夢子はにこりと笑った。啓介に寄せる信頼からくる、屈託の無い笑顔。


悔しかった。それを自分に向けさせたい──そう思った慎吾は思わず口にしていた。
「ウチに入んねぇか?」
「あたしが、ナイトキッズに──ですか?」
「ああ。お前がいたら楽しそーだし」
「……でも、」

「ウチの姫をかどわかさないで貰いたい」
涼介がするりと夢子の腰に腕を回す。
「チ、高橋涼介。……かどわかすって何だよ」
夢子はレッドサンズの切り札だからな。他に渡すわけにはいかないんだ」
「へ?」
切り札と称された当の本人がきょとんと涼介を見上げた。
「どノーマルのZ乗ってんのにか?」
「そうだな。正確に言えば──幸運の女神、といったところだ」
涼介はゆるりと微笑って夢子を促した。
「中里から了承は貰った。藤原に話をしに行こう」
「はい。……慎吾さん、また後で」
夢子は涼介に腰を抱かれたまま、ひらひらと手を振る。


(クソ、可愛い……)


唇を噛んだ慎吾は、夢子の背中に左手を小さく振った。


「何だ、慎吾。ニヤニヤして」
「いや別に。バトルには負けたけど収穫はあったしな。プラマイゼロでいんじゃね?」
「……彼女のことか?」
「決まってんだろ」
「付き合ってる奴、居るみたいだぞ」
「あ?夢子に聞いたのか?」
「いや……左手の薬指に、指輪──」
「へェ。よく見てんな。気付かなかったぜ」


(惚れたな?)


慎吾は煙草を取り出してニヤリと笑った。
「毅よォ。お前どこまでイってもオレの邪魔ばっかすンのな」
「──こっちの台詞だ」
吐き捨てるように毅が呟いた。





「オレと……?」
賢太から事の顛末を聞かされた拓海が、驚いたように目をみはる。
「そうだ。このバトル、受けてもらいたい」
「だって……これはナイトキッズとレッドサンズの交流戦なんだろ?そんなとこにオレがでしゃばるわけにはいかないよ……」

「ここから先はうちのチームとは関係ない。そっちの好きなようにしてくれ」
どこか悲痛な面持ちで毅が言った。拓海の心臓がズキリと痛んだ。




「啓介さん。あのこ、拓海くんて──すごい巧いですよね?」
拗ねている啓介のパーカーの裾を引いて、夢子が小声で聞いた。
「?夢子、藤原のバトル見たことあったか?」
「ないです、けど──わかります。何て言うか、伝わってくる感じがして」
夢子は言葉を切った。言おうか言うまいか、暫し逡巡して──
「多分、今の賢太じゃ……勝てないと思います」
「何だよ、薄情だな。お前の彼氏だぞ?応援してやれよ」
「応援はしますけど、でも、ホントのことだし」
「まぁなー。アニキも張り切ってるしな。ケンタの14にカメラ載せてんだ」
啓介が指した先には史浩と話す賢太が居る。


唇を噛んで賢太へ駆け寄った。スニーカーがパシャパシャと水溜りを跳ねる。
「賢太、」
「見てろよ夢子!秋名のハチロクなんかブッチギってやるからな!」
「……ケガ、しないでね」
「あ?オレを誰だと思ってんだよ。絶対大丈夫だって」
賢太は夢子の濡れた髪を掻き回して笑った。
「ごめんな。早く終わらせて一緒に風呂入ろうな」
頷いた夢子は、堪らなく不安になった。それを悟られないように、にこりと笑った。



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title.椎名林檎
up date.2005/02/02